柄谷行人に大きな転回があったようだ。気配はないでもなかったが(参照▶︎ 柄谷行人の「交換様式」語りの列挙)、やはり衝撃だね。絶句気味だよ。1941年生まれの柄谷だから、このまま曖昧な形で終わってしまうんじゃないか。
ひょっとして浅田彰がちょっかい入れたんじゃないかな、柄谷曰く《ドゥルーズのいう「逃走」は、Aのイメージに近い。システムの網目をぬって抜け穴をつき、小さな自由を見つけ出していく。それらが共振して広がっていき、思いもかけなかったような展開が生まれる。》とあるが、この逃走は浅田が長年繰り返している話だから。
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◼️柄谷行人インタビュー「戦争の時代」に考える 『力と交換様式』文庫化で大幅に改訂 2026.05.25 |
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「Dなんていらない」? 交換様式の「力点」が移った理由 |
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――柄谷さんは今年3月、理論的な著作としては最新作にあたる『力と交換様式』(2022年)を大幅に改訂し、「定本」として文庫化しました。多くの部分で記述がより整理されていますが、大きな論点としては、Dについての記述があると思います。より具体的に言えば、これまで「Aの高次元での回復」といった表現にとどまっていたDとAの関係が明確化された。「Dの実現にとって交換様式Aが不可欠」「人がDについて何かを知りうるとすれば、それはAを通してだけである」と書かれました。 |
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柄谷 Aというのは、新しい社会システムとかプログラムではない。最近気づいたことですが、ドゥルーズのいう「逃走」は、Aのイメージに近い。システムの網目をぬって抜け穴をつき、小さな自由を見つけ出していく。それらが共振して広がっていき、思いもかけなかったような展開が生まれる。世界戦争の時代には、国家(B)と資本(C)が最高度に強化されます。そこで正面から国家や資本に抵抗しても、つぶされるだけです。私が交換様式論の力点をDからAに移動させたことには、このような背景がある。Dを掲げて権力に立ち向かうことが有効なときもある。でも、いまはAに焦点を当てるときです。 |
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――柄谷さんは、Aの実践として、協同組合や社会運動を例に挙げてきました。いずれも地道にやっていかないといけないものですね。これだけ事態が逼迫すると、一足飛びにDの到来をなんとか実現できないか、と思ってしまう部分もあります。 |
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柄谷 実は、『力と交換様式』の単行本を脱稿した後、「Dなんて最悪だ。Aが大切だ」と言い始めて、周りを当惑させました。交換様式論にDはもういらない、と思ったこともあるくらいです。 |
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――それは衝撃的ですね。なぜですか? |
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柄谷 そもそもDは、定義はもちろん表象すらできない。だから、「Dを目指す」などと軽々しく言うべきではないのです。自分がDの代理人だと思うことは、暴力につながる。言いかえれば、人を強制するとか権力を得ようとすることに。 |
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――確かに、理想を掲げていたはずの社会主義国家や宗教が逆に人々を苦しめた歴史もあります。ただ、D抜きの交換様式論は、現状の分析にはなっても、体制を乗り越えることからは遠のくのではないでしょうか。 |
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柄谷 もちろんそうです。ただ、Dは目指すことも呼び寄せることもできない。二年近く前から新約聖書について考えてきたのですが、そのなかでAとDの関係がだいぶん整理されました。3月に出た『力と交換様式』の文庫は、それをふまえて全面的に改稿したものです。 |
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いまこそ「贈与と返礼」 |
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―― 一方で、今回ポジティブに捉え直されているAですが、例えば、家族や地域共同体では、内の人々は束縛し、外の人間は排除する部分がありますね。国家と結びつくと、ナショナリズムも生み出します。 |
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柄谷 それもその通りなんです。それでもAが重要です。Aというのは互酬(贈与―返礼)ですが、ここには二つの可能性があります。まずはB、Cのもとでそれらの下請けのようになること。もう一つは、Dに向かうこと。Aの中には、人を純粋贈与に駆り立てる要素がある。純粋贈与というと、自己犠牲とか無償の愛とかいうふうに解釈されがちですが、そういう説教くさくて深刻ぶったものではない。Aは、倫理とか宗教的理想とは違う。そういうものはほとんどの場合、ていのいい支配の手段です。純粋贈与への衝動は、向こうからくる力――私はDの力だと考えていますが――に駆り立てられることによって、自然に起こるものなのです。この力はあらゆる人に働きかけているのですが、資本・国家の力があまりにも強いため、それに埋もれて見えなくなっている。 |
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――人が純粋贈与をせまる力に駆り立てられる、というのはどんなことでしょう。 |
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柄谷 科学的に証明できるような事柄ではありませんが、経験的には感じ取れるはずです。簡単な例をあげれば、自分が損をしてまで人を助けようとするのは、案外ありふれた行為で、特別に立派な人がそうするということでもなく、広く見られるものでしょう? |
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――Aの実践で、国家や資本を乗り越えることは出来るのでしょうか。 |
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柄谷 BやCを完全に斥けるのは、当然不可能です。現在の世界は、それらの力で成立しているからです。だけど、B、Cから比較的自由なモメント(要素)が、実は結構ある。それらを見出して表面化させていくことはできる。そうして意識的にB、Cから距離を置くことで、Aの力が働く余地が生まれます。こういうことは、図式的に言っていると退屈だし実感が湧きにくいです。その意味でも、交換様式を新約聖書と原始キリスト教に即して再考することは有意義だと思っています。 |
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――最後に。デモもAの一種と考えられるのでしょうか。 |
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柄谷 そうですね。いま再び注目されている日本国憲法9条は、Dの促しによってできたものだとも考えられます。個々人の意思を超えて出現したものであることは確かです。一度失われれば、どうあがいてもとりもどすことは不可能に近いでしょう。悔やんでも、もう手遅れです。いま私たちにできるのは、小さな力に見えても、やはりAの実践しかありません。デモもその一つですが、それ以外にも権力(B)や金銭(C)に毒されていないものがあちこちに潜んでいる。それを見つけて育てるのは、楽ではないけれど創造的で楽しいことでもあるんじゃないか、そう思います。 |
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なおこの引用の前段にはこうもある。 |
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柄谷 冷戦が崩壊したとき、戦争の時代に入ったと思いました。19世紀の帝国主義戦争の再来になる、と。多くの人は、国の境界が薄れていき平和な世界が訪れるだろうと予測したけれど。ただ、いざこういう状況になってみると、茫然とするほかない。3、4年前までは怒ってばかりいましたが、いまは絶望で無気力になっています。老年性の鬱かとも思いましたが、時局によるところが大きい。 正直に言えば、現在の情勢について、細かく追ったり積極的な発言をしたりする心境ではなくなっています。昔から情勢論をいうタイプではありませんでしたが、もう何も言う気が起きない。ただ、あきらめてはいません。交換様式論について考え続けているのも、そのためです。 |
………………
逃走といえば、ドゥルーズにとってクモでもあるがね。すなわちプルーストの方法。
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無意志的シーニュは、言語の卓越した組織化に抵抗し、語と句に支配されることを許容せず、ロゴスを逃走させ我々を別の領域に導き入れる。 …signes involontaires qui résistent à l'organisation souveraine du langage, qui ne se laissent pas maîtriser dans les mots et les phrases, mais font fuir le logos et nous entraînent dans lin autre domaine.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能ーークモーー」 1976年) |
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しかし器官なき身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、蜘蛛はただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もない蜘蛛は、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。 |
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『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、蜘蛛の巣のように構築されている。語り手 = 蜘蛛。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれそれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣と蜘蛛、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。 語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で有機的ないかなる使用もできない範囲で、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、余儀なく強制されるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。 そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する「器官なき身体」の包括的で強度な反作用として存在する無意志的感受性、無意志的記憶、無意志的思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれを開けるか閉じるために動くのは、この身体 = 巣 = 蜘蛛である。 語り手の異者的可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人ーー普遍的な分裂症者である語り手のこの身体= 蜘蛛が、そこから自分自身の錯乱の操り人形、おのれの器官なき身体の強度な力、おのれの狂気の輪郭を作るために、パラノイアであるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。 |
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Mais qu'est-ce que c'est, un corps sans organes ? L'araignée non plus ne voit rien, ne perçoit rien, ne se souvient de rien. Seulement, à un bout de sa toile, elle recueille la moindre vibration qui se propage à son corps en onde intensive, et qui la fait bondir a rendrait nécessaire. Sans yeux, sans nez, sans bouche, elle répond uniquement aux signes, est pénétrée du moindre signe qui traverse son corps comme une onde et la fait sauter sur sa proie. |
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La Recherche n'est pas bâtie comme une cathédrale ni comme une robe, mais comme une toile. Le Narrateur-araignée, dont la toile même est la Recherche en train de se faire, de se tisser avec chaque fil remué par tel ou tel signe : la toile et l'araignée, la toile et le corps sont une seule et même machine. Le narrateur a beau être doué d'une sensibilité extrême, d'une mémoire prodigieuse : il n'a pas d'organes pour autant qu'il est privé de tout usage volontaire et organisé de ses facultés. En revanche, une faculté s'exerce en lui quand elle est contrainte et forcée de le faire; et l'organe correspondant se pose sur lui, mais comme une ébauche intensive éveillée par les ondes qui en provoquent l'usage involontaire. Sensibilité involontaire: mémoire involontaire, pensée involontaire qui sont chaque fois comme les réactions globales intenses du corps sans organes a des signes de telle ou telle nature. C'est ce corps-toile-araignée qui s'agite pour entrouvrir ou pour fermer chacune des petites boîtes qui viennent heurter un fil gluant de la Recherche. Étrange plasticité du narrateur. C'est ce corps-araignée du narrateur, l'espion, le policier, le jaloux, l'interprète et le revendicateur ― le fou ― l'universel schizophrène qui va tendre un fil vers Charlus le paranoïaque, un autre fils vers Albertine l'érotomane, pour en faire autant de marionnettes de son propre délire, autant de puissances intensives de son corps sans organes, autant de profils de sa folie. |
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(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能ーークモーー」第3版追加章、 1976年) |
どうだい、 《Aというのは、新しい社会システムとかプログラムではない。最近気づいたことですが、ドゥルーズのいう「逃走」は、Aのイメージに近い。システムの網目をぬって抜け穴をつき、小さな自由を見つけ出していく。それらが共振して広がっていき、思いもかけなかったような展開が生まれる。世界戦争の時代には、国家(B)と資本(C)が最高度に強化されます。そこで正面から国家や資本に抵抗しても、つぶされるだけです。私が交換様式論の力点をDからAに移動させたことには、このような背景がある。Dを掲げて権力に立ち向かうことが有効なときもある。でも、いまはAに焦点を当てるときです》であるなら、いまはクモに焦点を当てたら?
つまりは《蜘蛛はただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もない蜘蛛は、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。》という具合に国家=資本に対したら?