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久しぶりにX(ツイッター)にて日本の一般庶民の言論活動をいくらか観察してみたが(前々回の投稿はその派生物のひとつ)、日本ムラ社会の方々は、相変わらず、荷風のイクミナ(1937年)ーーこのイクミナは辺見庸が取り出したーーをやってるようだな、
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余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり(永井荷風「断腸亭日乗」1937年8月24日)
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で、どこへイクミナしたいんだろ、《軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず》日々の生活を楽しんでいる方々は?
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農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)
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農耕社会の強迫症親和性はムラ社会の特性だからな、今=ここ文化の人たちだよ、
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日本が四季のはっきりした自然と周囲を海に囲まれた島国であることから、人々は物事を広い空間や時間概念で捉えることは苦手、不慣れだ。それ故、日本人は自分の身の回りに枠を設け、「今=ここに生きる」の精神、考え方で生きる事を常とする。この身の回りに枠を設ける生き方は、国や個人の文化を創り出す土壌になる。〔・・・〕
社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。
これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)
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日本社会はむかしのような勤勉と工夫の人は少なくなった筈だが、そうは言っても、キミたちはまだまだ勤勉なんだろうな、
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勤勉と工夫に生きる人は、矛盾の解決と大問題の処理が苦手なのだ。そもそも大問題が見えにくい。そして、勤勉と工夫で成功すればするほど、勤勉と工夫で解決できる問題は解消して、できない問題だけが残る。(中井久夫『「昭和」を送る』初出「文化会議」 1989年)
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で、やっぱりこれだろ?ーー《一社会が「なしくずし」に破局に近づいてゆくとき、破局はいつでも遠くみえる。》(加藤周一「遠くて近きもの・地獄ーー破局はいつも突然に」1982年)
………………
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ナフサ不足とか肥料不足、さらに飢餓の心配等を指摘し続けている一握りの人はいるにはいるんだが、今=ここ精神のムラ人に「煽るな!」と村八分の憂き目に遭遇していて不憫に思う事しきりだよ。
世界的にも《不吉な予言者の言葉は聞き入れられない》とはいえ、空気を読むムラ社会文化ではその傾向は格別なんだろうよ、
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不吉な予言者の言葉は聞き入れられない。なぜなら、その言葉が知識や情報をもたらすとしても、それを聞く人々の信念体系には受け入れられないからである。知ることだけでは、その知識を受け入れ、それに応じて行動するには不十分である。この基本的な真理を、予防原則の提唱者たちは未だに理解していない。彼らは、知識に確信が持てないがゆえに、災害を前にして行動を起こさないのだと考えている。しかし、確かな情報源から知っていたとしても、私たちは自分が知っていることを信じることができないのである。
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Le prophète de malheur n'est pas entendu parce que sa parole, même si elle apporte un savoir ou une information, n'entre pas dans le système des croyances de ceux à qui elle s'adresse. Il ne suffit pas de savoir pour accepter ce que l'on sait et agir en conséquence. Cette vérité de base, les promoteurs du principe de précaution ne l'ont toujours pas comprise, eux qui pensent que l'on n'agit pas devant la catastrophe parce qu'on n'est pas sûr de son savoir. Or, même lorsque nous savons de source certaine, nous n'arrivons pas à croire ce que nous savons.
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(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』Jean-Pierre Dupuy, Petite métaphysique des tsunamis, 2005)
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とはいえ余程の人ではない限り、不安はあるんだろうよ。回避してるだけで。
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すべての症状形成は、不安を避けるためのものである [alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)
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ーー《不安が抑圧を引き起こす[Hier macht die Angst die Verdrängung]》(フロイト『制止、症状、不安』第4章、1926年)
この不安は不快のことでもある。
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不快(不安)[ Unlust-(Angst).](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
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不安は、特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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で、不安の回避とは不安なる不快の抑圧のことだ。
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抑圧の動因と目的は不快の回避以外の何ものでもない[daß Motiv und Absicht der Verdrängung nichts anderes als die Vermeidung von Unlust war. ](フロイト『抑圧』1915年)
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問いは、抑圧されたものの回帰がいつやって来るかだな、
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このいまのムラ人の症状の典型は、戦争なんかすぐ終わるさ、という願望思考なんだろうが、つまりこの願望がいつ崩壊するかだな。「抑圧された不安の回帰」がやってきた時にボロボロにならないことを祈ってるよ。 |
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なお用心のためにーー「オマエ煽るな!」と難詰されないためにーーふたたびへーゲリアンのデュピュイを引用しとくよ。
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不幸の予言が告げられるのは、その不幸が現実のものとならないようにするためである。後になって、最悪の事態にはいたらなかったことを指摘して、警鐘を鳴らした人々を揶揄するのは不当さの極みだろう。彼らの失敗が功績になっているかもしれないのだから。
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La prophétie de malheur est faite pour éviter qu'elle ne se réalise ; et se gausser ultérieurement d'éventuels sonneurs d'alarme en leur rappelant que le pire ne s'est pas réalisé serait le comble de l'injustice : il se peut que leur impair soit leur mérite.
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ーージャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』(2005年)
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何はともあれこの今の最も重要なことは、もはや大本営発表に終始している主流メディアの甘言に騙されないことだよ。
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人は、まるで恋をしているときのように、目かくしをして、新聞を読んでいるのだ。事実を理解しようとはつとめない。愛人の言葉に耳を傾けるように、主筆の甘言に耳を傾けている。on lit les journaux comme on aime, un bandeau sur les yeux. On ne cherche pas à comprendre les faits. On écoute les douces paroles du rédacteur en chef, comme on écoute les paroles de sa maîtresse. (プルースト「見出された時」)
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