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2025年11月7日金曜日

道徳と倫理の相違、あるいは反道徳的な倫理のために

 

反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。in ihr unzeitgemäß – das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit – zu wirken.〔・・・〕

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。Denn alles, was mit der öffentlichen Meinung meint, hat sich die Augen verbunden und die Ohren verstopft (ニーチェ『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』1876年)


これは、ドゥルーズが初期から晩年まで繰り返し引用しているニーチェ文だが[参照]、ドゥルーズ研究者の江川隆男がスピノザ論で次のように言っている。

もっとも重要なのは、道徳と倫理の差異を知ること、道徳を批判すること、反道徳的な倫理を創造することである。(江川隆男『スピノザ『エチカ』講義批判と創造の思考のために』2019年)


道徳とは世論とともに考えることである。他方、倫理とは時代に抗して考えることである。少なくとも私はそう考える。

これは柄谷行人の思考の下では、道徳は「個別性と一般性」の審級にあり、倫理は「単独性と普遍性」の審級にあるということでもある。


ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。したがって、個別性-一般性という対と、単独性-普遍性という対を区別しなければならない、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》On oppose donc la généralitécomme une généralité du particulier, et la répétition comme universalité du singulier.(『差異と反復』)。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは別の言い方でいえば、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうではないということである。〔・・・〕

個人は、たとえば、まず日本語 (日本民族)のなかで個々人となる。人類(人間一般)というような普遍性はこのような特殊性を欠いたときは空疎で抽象的である。 「世界市民」が彼らによって侮蔑されるのはいうまでもない。それは今も嘲笑されている。しかし、カントは「世界市民社会」を実体的に考えたのではない。また、彼はひとが何らかの共同体に属することそれ自体を否定したのではない 。ただ思考と行動において、世界市民的であるべきだといっただけである。実際上、世界市民たることは、それぞれの共同体における各自の闘争(啓蒙) をおいてありえない。

(柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』第一部・第3章「Transcritique」2001年)


共同体と世界市民が対比されているが、よりわかりやすく言えば、次のようになる。


道徳は「共同体的」であり、倫理は「社会的」であると区別すべきです。(柄谷行人『闘争のエチカ』1988年)

私は、道徳という言葉を共同体的規範の意味で使い、倫理という言葉を「自由」という義務にかかわる意味で使います。(柄谷行人『倫理21』 2000年)

カントは、自由は義務(命令)に対する服従にあるといった。これは人を躓かせるポイントである。なぜなら、命令に従うことは自由に反するように見えるから。したがって、あとで述べるように、多くの批判がここに集中する。しかし、カントがこの義務を共同体が課す義務と見なしていないことは明白である。もし命令が共同体のものであるならば、それに従うことは他律的であり、自由ではないからだ。では、いかなる命令に従うことが自由なのか。それは「自由であれ」という命令である。そう考えると、この言葉になんら矛盾はない。カントがいう「当為であるがゆえに可能である」という言葉にも謎はない。それは、自由が「自由であれ」という義務以外のところから生じない(不可能である)という意味にすぎない。


しかし、この命令はどこからくるのか。それは共同体からではないし、神からでもない。(カントの)超越論的態度そのものから来るのである。超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術展に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的な視点そのものが一つの命令に促されているということが。そのことは、超越論的な視点そのものはどこから来るのかと問うときに、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。


この「自由であれ」という義務は、むしろ、他者を自由な存在として扱えという義務にほかならない。カントがいう道徳法則とは、「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず、つねに同時に目的(=自由な主体)として用いるように行為せよ」(『純粋理性批判』)ということである。だが、つぎのことに注意すべきであろう。それは他者の人格(主体)が人格としてあらわれるのは、このような「義務」によってのみであるということだ。理論的な態度においては、私の人格のみならず他者の人格も存在しない。私の人格と他者の人格(自由)が出現するのは、実践的な態度においてのみである。だから、カントの道徳法則は実践的であれということと同義である。(柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』第一部・第3章「Transcritique」2001年)


「超越論的視点そのものが倫理的」とあるが、これは決して超越的視点ではない。

これについては、こう引用しておこう。



カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


柄谷)僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある。


その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。〔・・・〕


蓮實)自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない…

(柄谷行人/蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)



で、こう引用してきて何が言いたいんだろうか。ーー現在の日本言論界は道徳的な人ばかりが目につくな、反吐がでるよ。