フェティシュは何よりもまず黄金のそばに置かれているものだよ。
◼️フェティシュと隠蔽記憶 |
「初期の」性的刻印に関して精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。 真の解釈は、フェティッシュの発生の最初の記憶の背後に、埋没され忘れられた性的発達の最初の記憶の段階があり、それがフェティッシュによって表象される。それは、あたかも「隠蔽記憶」によるようにして、フェティッシュはこの記憶の残滓と沈殿物を表象するのである。つまり幼児期の最初の数年のこの段階に、フェティシズムとフェティッシュの選択が構成的に決定づけられる。 alle diese »frühzeitigen« Sexualeindrücke… während die Psychoanalyse daran zweifeln läßt, ob sich pathologische Fixierungen so spät neubilden können. Der wirkliche Sachverhalt ist der, daß hinter der ersten Erinnerung an das Auftreten des Fetisch eine untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung liegt, die durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« vertreten wird, deren Rest und Niederschlag der Fetisch also darstellt. Die Wendung dieser in die ersten Kindheitsjahre fallenden Phase zum Fetischismus sowie die Auswahl des Fetisch selbst sind konstitutionell determiniert.. |
(フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年、1920年注) |
その哲学教授の最初の記憶は三歳から四歳にかけての時期にあたるもので、テーブル掛けの掛けられた食卓のイメージが現われ、その上には氷の入った鉢が載っている。ちょうどその頃、教授の祖母が亡くなっているのだが、両親の言によれば、祖母の死は子供にひどいショックを与えたのであった。しかしその哲学教授は、祖母の死んだ事件については何も知っていない。彼がその時期のことを思い出すのは、ただ氷の入った鉢だけである。 …einem Professor der Philologie, dessen früheste Erinnerung, in die Zeit zwischen drei und vier Jahren verlegt, ihm das Bild eines gedeckten Tisches zeigte, auf dem eine Schüssel mit Eis steht. In dieselbe Zeit fallt auch der Tod seiner Großmutter, der das Kind nach der Aussage seiner Eltern sehr erschüttert hat. Der nunmehrige Professor der Philologie weiß aber nichts von diesem Todesfall, er erinnert sich aus dieser Zeit nur an eine Schüssel mit Eis. 〔・・・〕 幼児期のある出来事が記憶の中に現れるのは、それ自体が黄金であるからというのではなく、それが黄金のそばに置かれているからである。ein gewisses Erlebnis der Kinderzeit kommt zur Geltung im Gedächtnis, nicht etwa weil es selbst Gold ist, sondern weil es bei Gold gelegen ist. (フロイト『隠蔽記憶について Uber Deckerinnerungen』1899年) |
ボクはパンストフェチだがね、やっぱり黄金のそばに置かれているよ。
以前、韓国女性のYouTube動画を拾ったことがあるがね(今は視聴不可になっている)。
ボクは足フェチ、靴フェチでもあるから、こんな動画は滅多にないよ、GIFにしといてよかったなあ。
ある男がいる。現在、女の性器や他の魅力にまったく無関心な男である。だが靴を履いた固有の形式の足にのみ抵抗しがたい性的興奮へと陥る。彼は、6歳の時の出来事を思い起こす。その出来事がリビドーの固着の決定因だった。 彼は背もたれのない椅子に座っていた。女の家庭教師の横である。初老の干上がった醜いオールドミスの英語教師。血の気のない青い目とずんぐりした鼻。その日は足の具合が悪いらしく、ビロードのスリッパ [Samtpantoffel]を履いてクッションの上に投げ出していた。 彼女の脚自体はとても慎み深く隠されていた。痩せこけた貧弱な足。この家庭教師の足である。彼は、思春期に平凡な性行動の臆病な試み後、この足が彼の唯一の性的対象になった。男は、このたぐいの足が英語教師のタイプを想起させる他の特徴と結びついていれば、否応なく魅惑させられる。彼のリビドーの固着[Fixierung seiner Libido]は、彼を神経症ではなく、いわゆる倒錯、足フェチ[Fußfetischisten]にしたのである。 |
Ein Mann, dem heute das Genitale und alle anderen Reize des Weibes nichts bedeuten, der nur durch einen beschuhten Fuß von gewisser Form in unwiderstehliche sexuelle Erregung versetzt werden kann, weiß sich an ein Erlebnis aus seinem sechsten Jahre zu erinnern, welches maßgebend für die Fixierung seiner Libido geworden ist. Er saß auf einem Schemel neben der Gouvernante, bei der er englische Stunde nehmen sollte. Die Gouvernante, ein altes, dürres, unschönes Mädchen mit wasserblauen Augen und aufgestülpter Nase, hatte an diesem Tage einen kranken Fuß und ließ ihn darum mit einem Samtpantoffel bekleidet, ausgestreckt auf einem Polster ruhen; ihr Bein selbst war dabei in dezentester Weise verhüllt. Ein so magerer sehniger Fuß, wie er ihn damals an der Gouvernante gesehen, wurde nun, nach einem schüchternen Versuch normaler Sexualbetätigung in der Pubertät, sein einziges Sexualobjekt, und der Mann war widerstandslos hingerissen, wenn sich zu diesem Fuß noch andere Züge gesellten, welche an den Typus der englischen Gouvernante erinnerten. Durch diese Fixierung seiner Libido wurde der Mann aber nicht zum Neurotiker, sondern zum Perversen, zum Fußfetischisten, wie wir sagen. |
(フロイト『精神分析入門』第22講、1917年) |
愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年) |
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女にはわかんねえかもな、巷では「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」というから。 |
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フェティシズムの対象の選択には、ビネー(精神分析にフェティシズムを導入したアルフレッド・ビネー Alfred Binet)が当初主張し、後に数多くの証拠によって立証されたように、主に幼少期に受けた性的印象の持続的な影響が表れており、これは正常な人における「初恋の記憶はいつまでも消えない」(「on revient toujours à ses premiers amours」)という格言と並べて考えることができる。 In der Auswahl des Fetisch zeigt sich, wie Binet zuerst behauptet hat und dann später durch zahlreiche Belege erwiesen worden ist, der fortwirkende Einfluß eines zumeist in früher Kindheit empfangenen sexuellen Eindruckes, was man der sprichwörtlichen Haftfähigkeit einer ersten Liebe beim Normalen (» on revient toujours à ses premiers amours«) an die Seite stellen darf. (フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年) |
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男女の性愛の対象に対する位置づけが異なるとすれば、それはフェティッシュ的形態と被愛妄想的形態を隔てる距離の差にほかならない[Si la position du sexe diffèr e quant à l'objet, c'est de toute la distance qui sépare la forme fétichiste de la forme érotomaniaque de l'amour. ](ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドライン Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年) |
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女性の愛の形式は、フェティシュというよりも被愛妄想的です。女性は愛されたいのです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。この現象は、男たちが女たちに話しかける実践の基礎に横たわっています。la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste : elles veulent être aimées, et l'intérêt, l'amour qu'on leur manifeste, ou qu'elles supposent chez l'autre, est souvent une condition sine qua non pour déclencher leur amour, ou au moins leur consentement. Le phénomène est à la base de la drague masculine. (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年) |
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ところでラカンには黒いフェティッシュ概念がある。 |
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純粋対象、黒いフェティッシュ[pur objet, fétiche noir.](Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
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享楽が純化されるとき、黒いフェティッシュとなる[Quand la jouissance s'y pétrifi e, il devient le fétiche noir](Lacan, Kant avec Sade , E773, 1963年) |
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なんだろ、これ? ラカン注釈者でまともに取り上げてるひと、見たことないがね。ひょっとして《垣間見られた陰毛の光景への固着[ fixieren –; den Anblick der Genitalbehaarung]》(フロイト『フェティシズムFetischismus』1927年)かもな、それともブラックホールだろうか。 |
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ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir ](Lacan, JEUNESSE DE GIDE, E750, 1958) |
ボクはブラックホールには趣味がないんだがね、怖いからな。
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あなたを呑み込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997) |
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大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ) ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006) |
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どの穴も女陰の裂け目の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ](フロイト『無意識』第7章、1915年) |
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※▶︎参照
というわけだが、ラカンの最も重要なマテームS(Ⱥ)は黒いフェティシュなんだろうか。あるいは黒い夜?
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黒い夜は黄金のそばに置かれてるようには思えないがな・・・
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フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを。 |
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c'est de se rappeler avec Freud qu'en sa matière, l'artiste toujours le précède et qu'il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie. |
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(ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ (HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS )」AE193、1965年) |
ま、重要なのは文学を読むことだよ、文芸なき精神分析は無だね。
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われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして詩人は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。 |
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Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen |
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(フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年) |
もちろんすぐれた文芸だがね、接すべきは。例えば、ナボコフの『ロリータ』をつい最近読み返してみたんだが、「黄金のそば」の話ばっかりだよ、特に冒頭近くの「私のアナベル期」の記述はいまさらだがスゴイねえ。でも重要なのはーー当たり前だがーー、精神分析を通して文芸に接するのではなく、逆の道を辿ることだ。
蓮實重彦の『光をめぐって』に、ビクトル・エリセへの限りなく美しいインタヴューがあるがね、
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蓮實重彦)『エル・スール』の場合は、オフのナレーションが素晴らしいのですが、この構成はシナリオ段階から決まっていたわけですね。 ビクトル・エリセ) ええ、あのナレーションの声は、すでに大人になった女、つまりエストレーリアがその成熟した女としての視点から語っているのです。彼女が、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語っているわけです。それは、内面の日記かもしれない。文学的な作品の一断片かもしれない、しかしそれが文学的なものとして語られることを私は望んだのです。 |
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蓮實重彦)その少女時代の根源的な体験の中で、父親が重要な役目を果たしています。ところが、この父親と娘という関係をめぐって「この発想はあからさまにフロイト的だ」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」誌で読みました。好意的な文章なのですが、こういう言葉で単純な図式化が行われると、作品の豊かさが一度に失われて残念な気がしました。 ビクトル・エリセ) おっしゃる通り、私は仕事をしているときに、その種のことはまったく考えていない。もちろん、これまでの生涯で目にしたある種のイメージとか、体験したある種の感情とかを映画の中に生かそうとはするでしょう。でも、フロイト的な発想などというものが最初のアイディアとしてあるわけではもちろんありません。私は心もとなく闇の中に歩きはじめる。私が何かを理解するのは撮影が終わった瞬間なのです。映画とは、そうした理解の一形態なのであり、あらかじめわかっていることを映画にするのではありません。〔・・・〕 |
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エリセ)アルゼンチンのある精神分析者が、『ミツバチ』をもとに両親と子供との関係を分析した本があります。そういうことはありうるでしょう。しかし、それは、発想のもとに精神分析的な図式があったというのとは別の問題です。自分の子供時代の記憶とか、誰かから聞いた話などが断片的に入り混じっている作品から作者の統一的な意図を引き出すという知的な解釈に私はしばしば驚かされます。(「心もとなく闇の中を歩みはじめるように」1985年、蓮實重彦『光をめぐって』所収) |
ボクは長年、心もとなく黒い夜の中を歩んでいるんだ。なんたってもともと《外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。》(芥川龍之介『羅生門』)ーーだからな。でも最近ようやく、いくらかの黄金の煌めきが見えてきたよ。ロラン・バルトのいう「ゆらめく閃光」がね。
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ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない[Le studium est en définitive toujours codé, le punctum ne l'est pas]。〔・・・〕それ(プンクトゥム)は鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。il est aigu et étouffé, il crie en silence. Bizarre contradiction : c'est un éclair qui flotte.(ロラン・バルト『明るい部屋』第22章「事後と沈黙」1980年) |
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第一の要素〔・・・〕それは、ストゥディウム(studium) という語である。この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するるのではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。 というのも、ストゥディウムのうちには、(それが文化的なものであるという共示的意味が含まれており)、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである[car c'est culturellement (cette connotation est présente dans le studium) queje participe auxfigures, aux mines, aux gestes, aux décors, aux actions.] |
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第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(ストゥディウムの場のように、私に帰属する意識を注ぐのではない)。写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。 |
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Le second élément vient casser (ou scander) le studium. Cette fois, ce n'est pas moi qui vais le chercher (comme j'investis de ma conscience souveraine le champ du studium), c'est lui qui part de la scène, comme une flèche, et vient me percer. |
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ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた徴を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい句読点のようなものがあり、ときにはそれが班点状になってさえいるのだ。この徴、この傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum) と呼ぶことにしたい。 |
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Un mot existe en latin pour désigner cette blessure, cette piqûre, cette marque faite par un instrument pointu; ce mot m'irait d'autant mieux qu'il renvoie aussi à l'idée de ponctuation et que les photos dont je parle sont en effet comme ponctuées, parfois même mouchetées, de ces points sensibles; précisément, ces marques, ces blessures sont des points. Ce second élément qui vient déranger le studium, je l'appellerai donc punctum; |
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というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな染み、小さな裂け目のことでありーーしかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。 |
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car punctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure ― et aussi coup de dés. Le punctum d'une photo, c'est ce hasard qui, en elle, me point (mais aussi me meurtrit, me poigne).(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章「ストゥディウムとプンクトゥム(Studium et Punctum)」) |
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※参照 プンクトゥム=《私の享楽、あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur]》(ロラン・バルト『明るい部屋』第11章) |
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疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966) |
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享楽が純化されるとき、黒いフェティッシュとなる[Quand la jouissance s'y pétrifi e, il devient le fétiche noir](Lacan, Kant avec Sade , E773, 1963年) |
ーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.]》 (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)
