だいたいこれで多くの人は混乱してしまう、ラカン派プロパだってあやしい人が多い。 〔a ◊ a〕なんて記してもイミフだろうしね。先のセミネール13にȺ(穴)=aとあったが、〔Ⱥ ◊ a〕とすればまだマシである。
ところで享楽の穴とはもちろん欲動の穴である。 | 欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975) |
そして剰余享楽の穴埋めとはフロイトの快の獲得である。 | フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973) |
先に掲げたセミネール16の剰余享楽の定義に享楽の断念 [la renonciation à la jouissance]とあったことを思い出しつつ次の文を読もう。
| 欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年) | 症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年) |
つまり剰余享楽=快の獲得は歪曲された代理満足に過ぎず、それゆえに行ったり来たりの反復が起こる。 |
なおフロイトの糸巻き遊び(いないないばあFort-Da)をめぐる記述に快の獲得[Lustgewinn]用語が頻出するのでここに掲げておこう。
小児の遊戯に関する諸学説は、子供たちの遊戯の動機を推測しようとつとめているが、そのさい経済論的観点[ökonomische Gesichtspunkt]、つまり快の獲得[Lustgewinn]にたいする考慮に重きをおいていない。私は、これらの現象をことごとく究めようと考えたのではないが、あるめぐまれた機会を存分に利用して、生後一年六ヵ月の男児が最初に自分でみつけた遊戯を、明らかにしようと思った。それは一時的な観察以上のものであった。なぜならば、私は数週間にわたって、子供やその両親とひとつ屋根の下に暮らしたのであり、たえず繰りかえされている謎めいた行為の意味が私に分かるまで、かなりながく観察をつづけたからである。
その子供は、知的な発達の点ではけっして早熱ではなかった。生後一年半で、ようやく、ごくわずかの明瞭な言葉をしゃべり、そのほかは身近の者だけに理解される、いくつかの意味のある音声をあやつっていた。だが、その子は両親と一人っきりの女中になじんでいたし、「お行儀のよい」性質のせいでほめられていた。夜間、両親を困らせもせず、いいつけをよくまもっていろいろな道具をいじったりしないし、禁じられた部屋へ行ったりしなかった。とりわけ、母親が何時間も傍にいないことがあっても、けっして泣いたりはしなかった。といっても、この子は母親がじぶんの乳でそだてたうえに、他人の手をいっさい借りずに世話してきたので、心から母親になついていた。 | この感心な子が、ときおり困った癖を現わしはじめた。つまり、何でも手に入るこまごましたものを、部屋のすみや寝台の下などに、遠くほうり投げるので、そのおもちゃを捜し集めるのがひと苦労になるしまつだったのである。そのさい、子供は興味と満足の表情を表わして、高い、長く引っぱった、オーオーオーオ[o-o-o-o ]という叫び声を立てた。母親と私の一致した判断によるとそれは間投詞ではなくて、「いない」fortの意味であった。私はついに、それは一種の遊戯であって、自分のおもちゃを、みな、ただ「いない、いない」fortsein 遊びにだけ利用していることに気づいた。
ある日、私はこの見解をたしかめる観察をした。子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび度台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Daという言葉でむかえた。これは消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を現わす完全な遊戯だったわけである。そのうち、たいていは前者の行為しか見ることができなかった。第二の行為にいっそう大きな快[größere Lust ]がともなったのは疑いないのだが、第一の行為がそれだけでも倦むことなく繰りかえされたのである。 | こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。 Die Deutung des Spieles lag dann nahe. Es war im Zusammenhang mit der großen kulturellen Leistung des Kindes, mit dem von ihm zustande gebrachten Triebverzicht (Verzicht auf Triebbefriedigung), das Fortgehen der Mutter ohne Sträuben zu gestatten. Es entschädigte sich gleichsam dafür, indem es dasselbe Verschwinden und Wiederkommen mit den ihm erreichbaren Gegenständen selbst in Szene setzte. | この遊戯を情動の面から評価[affektive Einschätzung]するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発[Anregung]されてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母が立ち去ってしまうこと[Fortgehen der Mutter ]は、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快原理に一致するのであろうか[Wie stimmt es also zum Lustprinzip, daß es dieses ihm peinliche Erlebnis als Spiel wiederholt?]。消滅はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。 このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである[Es war dabei passiv, wurde vom Erlebnis betroffen und bringt sich nun in eine aktive Rolle, indem es dasselbe, trotzdem es unlustvoll war, als Spiel wiederholt. ]。 | この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、支配欲動[Bemächtigungstrieb]に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供のもとから立ち去った母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動[Racheimpulses]の満足でもありうる。さあ、立ち去れよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ[ Das Wegwerfen des Gegenstandes, so daß er fort ist, könnte die Befriedigung eines im Leben unterdrückten Racheimpulses gegen die Mutter sein, weil sie vom Kinde fortgegangen ist, und dann die trotzige Bedeutung haben: »Ja, geh' nur fort, ich brauch' dich nicht, ich schick' dich selber weg.]。 | 私が最初の遊戯を観察したときは、生後一年半だったその子は、一年ののちに、しゃくにさわっていた玩具をいつも床に投げつけては「ちぇんちょう(戦争)に行っちゃえ!」»Geh' in K(r)ieg!« といっていた。そのころ子供は、家にいない父親が戦争に行っているのを聞かされていた。そして、父親がいないのを少しもさびしがらず、かえって母親の独り占め[Alleinbesitz der Mutter]を邪魔されたくないらしい明白な徴候を示した。われわれは、他の子供たちについても、彼らが同様の敵意にみちた興奮[ähnliche feindselige Regungen ]を、人間のかわりに物を投げだすことによって、表現することができるのを知っている。
すると、何か印象的なものを心理的に加工して、完全にわがものにする衝動が、一次的に、快原理から独立して発現しうるものかどうかという疑いが湧いてくる。しかし、ここで論議された例では、この衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快の獲得[direkter Lustgewinn ]が結びついているからこそであろう。 Man gerät so in Zweifel, ob der Drang, etwas Eindrucksvolles psychisch zu verarbeiten, sich seiner voll zu bemächtigen, sich primär und unabhängig vom Lustprinzip äußern kann. Im hier diskutierten Falle könnte er einen unangenehmen Eindruck doch nur darum im Spiel wiederholen, weil mit dieser Wiederholung ein andersartiger, aber direkter Lustgewinn verbunden ist. | これ以上小児の遊戯を追求しても、二つの見解の取捨選択をきめるには役立たない。子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである[daß die Kinder alles im Spiele wiederholen, was ihnen im Leben großen Eindruck gemacht hat, daß sie dabei die Stärke des Eindruckes abreagieren und sich sozusagen zu Herren der Situation machen. ]。 | しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由からの快の獲得[Lustgewinn]も見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである[Indem das Kind aus der Passivität des Erlebens in die Aktivität des Spielens übergeht, fügt es einem Spielgefährten das Unangenehme zu, das ihm selbst widerfahren war, und rächt sich so an der Person dieses Stellvertreters. ](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年) |
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なお「欲動の昇華」をめぐる記述にも「快の獲得」用語が出てくる。 | われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。
Eine andere Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet, durch die seine Funktion so viel an Geschmeidigkeit gewinnt. Die zu lösende Aufgabe ist, die Triebziele solcherart zu verlegen, daß sie von der Versagung der Außenwelt nicht getroffen werden können. Die Sublimierung der Triebe leiht dazu ihre Hilfe. | 一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得 [Lustgewinn]を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。Am meisten erreicht man, wenn man den Lustgewinn aus den Quellen psychischer und intellektueller Arbeit genügend zu erhöhen versteht.
芸術家が制作、すなわち自分の幻想の所産の具体化によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性をメタ心理学の立場から明らかにするととができるであろう。だが現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 なものに思えるという比喩的な説明しかできない。 Die Befriedigung solcher Art, wie die Freude des Künstlers am Schaffen, an der Verkörperung seiner Phantasiegebilde, die des Forschers an der Lösung von Problemen und am Erkennen der Wahrheit, haben eine besondere Qualität, die wir gewiß eines Tages werden metapsychologisch charakterisieren können. Derzeit können wir nur bildweise sagen, sie erscheinen uns »feiner und höher« | けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。 aber ihre Intensität ist im Vergleich mit der aus der Sättigung grober, primärer Triebregungen gedämpft; sie erschüttern nicht unsere Leiblichkeit. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
したがって、欲動の昇華は剰余享楽である。 | 間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である。au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013) |
だが欲動の昇華は十分にはなされないというのが『快原理の彼岸』のフロイトである。 | 抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer) (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
| 反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 、一次的、かつ欲動的であるように思われる[Wiederholungszwanges rechtfertigt, und dieser erscheint uns ursprünglicher, elementarer, triebhafter als das von ihm zur Seite geschobene Lustprinzip. ](フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) | われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
とすれば、〔a ◊ a〕は死の欲動の定式ではなかろうか。
もっともフロイトの死の欲動はもうひとつの意味もあるが。
以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[…ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要) | 人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) | 母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年) |
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