偶々次のツイートを拾った。
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桑原旅人@KuwaharaTabito 2026年6月22日 東大哲学科の院試で出題されたというドゥルーズの「超越論的経験論」に関するAIの解答。 1. 「ドゥルーズの「超越論的経験論」とは、経験を可能にする条件を、経験の外部にある普遍的形式ではなく、経験そのものの内在的な発生過程のうちに探る哲学である。カントの超越論哲学は、時間・空間・カテゴリーなどによって「経験一般の可能条件」を問うが、ドゥルーズから見れば、それはすでに成立した認識や表象を前提にしている。これに対し、ドゥルーズが問うのは、ある具体的な経験がいかに現実に発生し、思考や感覚や主体を変形させるのかである。その条件となるのは、同一性や主観ではなく、差異、強度、特異性、問題、出会いである。経験とは、主体が対象を安定的に認識する場ではなく、何かに衝撃を受け、既存のカテゴリーが揺さぶられ、思考が強制される場である。したがって超越論的経験論とは、可能的経験ではなく現実的経験の発生条件を、表象以前の差異と強度から考えるドゥルーズ独自の立場である。」(ChatGPT) |
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2. 「超越論的経験論は、ドゥルーズが『差異と反復』で展開した立場であり、カント超越論哲学の批判的変形である。カントは可能的経験の条件を問うたが、ドゥルーズによればその条件は経験的なものの引き写し(décalque)にすぎず、条件が条件づけられるものより大きくならない点で発生を捉え損ねている。これに対しドゥルーズは、可能的経験ではなく現実的経験の発生的条件を問う。ここに経験論的契機が働く。思考は再認(récognition)や良識に支えられた共通感覚から始まるのではなく、感じられるほかないもの(sentiendum)との「出会い」によって強いられて始動する。感性に直接与えられるのは再認可能な対象ではなく、強度としての差異そのものであり、諸能力はその不調和的な超越的行使へと送り返される。条件を可能性ではなく発生の次元で問い、与件を差異・強度として捉える点で、この立場は経験論的であると同時に超越論的なのである。」(Claude) |
で、鈴木泉氏によればこういう採点らしい。
さらにーー、
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桑原旅人@KuwaharaTabito 2026年6月27日 鈴木泉先生の一連のポストは、これだけでは何のことかわからないと思うので、自分の勉強のために、AIにまとめてもらいました。 「鈴木泉先生の発言の中心は、「超越論的哲学」をカントだけの専門用語として閉じ込めず、哲学史全体を読むための基準として使うということです。 カントの超越論的哲学は、端的には、 対象・経験・認識・思考が、どのような条件のもとで成立するのか を問うものです。 つまり、哲学の問いを単に「何が存在するか」「何を知っているか」にとどめず、それが存在者として、対象として、経験として、認識として成り立つ条件は何かへと移す。この問いの立て方が、カント以後の哲学にとって決定的な基準になる。 |
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その基準から見ると、カント以前の哲学も読み直せる。 たとえば中世の超越範疇は、存在・一・真・善のように、個別のカテゴリーを超えてすべての存在者に妥当する規定を扱う。これはカント的な意味での超越論的哲学ではないが、個別対象ではなく、存在者一般の水準を問うという点で、超越論的問題系の前史として読める。 ここでスコトゥスが重要になる。スコトゥスにおいて、形而上学は単に神という最高存在者を扱う学ではなく、まず「存在者であるかぎりの存在者」、すなわち共通存在を扱う学として構想される。存在は神と被造物にまったく異なる意味で語られるのではなく、一義的に語られうる。だから形而上学は、神学に従属するだけではなく、存在者一般の可知性や形式的条件を問う学として自立する。この点で、Honnefelder の言う「第二の形而上学」の意義が出てくる。 デカルトの蜜蝋分析も同じです。蜜蝋の色・匂い・形・硬さが変わっても、われわれはそれを「同じ蜜蝋」として認識する。すると、物体認識は感覚だけではなく、知性による把握によって成立していることになる。つまりデカルトは、物体が物体として認識される条件を問うている。その意味で、厳密なカント的論証ではないにせよ、「超越論的分析」と呼べる。 |
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スピノザの共通概念論も、ここで重要になる。共通概念は、私の身体と外部の身体に共通するものについての十全な観念です。これは単なる経験的一般化ではなく、想像的で混乱した認識から、理性的で十全な認識へ移行するための条件になる。 ドゥルーズの超越論的経験論も、この系譜のなかで位置づけられる。ドゥルーズは、カントのように可能的経験の条件を問うだけではなく、現実の経験がどのように発生するのかを問う。つまり、経験一般を可能にする形式ではなく、思考や感性が限界まで追い込まれ、経験そのものが生じる差異的・強度的な条件を問題にする。この点で、ドゥルーズはカントの超越論的哲学を継承しながら、それをスピノザ的な内在論や差異の哲学の方向へ変形している。 だから、カントを基準にすると、こう整理できます。 |
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スコトゥスは、存在者一般の可知性の条件を問う。 カントは、経験一般の可能条件を問う。 デカルトは、物体認識の成立条件を問う。 スピノザは、十全な認識へ移行する内在的条件を問う。 ドゥルーズは、経験そのものが発生する差異的条件を問う。 このとき、スピノザはカント的な超越論哲学者ではありません。スピノザには、カントのような超越論的主観も、カテゴリー論もない。けれども、認識が十全なものへ移行する条件を、身体・情動・自然の内在的関係のなかで問うている。だから、カント的な超越論哲学との関係で、その意義を測ることができる。 |
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また、ドゥルーズもカントを単に否定しているのではない。むしろ、超越論的哲学の問いを引き受けたうえで、その条件を「可能的経験の条件」から「現実的経験の発生条件」へ移し替えている。だからドゥルーズの超越論的経験論は、カントの外部にあるというより、カント的問題設定を内在論的・発生論的に変形したものとして理解できる。 「カントはバッハのようなもの」という比喩は、ここに関わります。 バッハは音楽のすべてではない。しかし、音楽の構成、形式、対位法、展開、緊張と解決を測る基準になる。同じように、カントは哲学のすべてではない。しかし、哲学が何かを問うとき、 それは何の条件を問うているのか 経験的条件なのか、超越論的条件なのか 主観の条件なのか、存在の条件なのか 認識の条件なのか、身体や情動の条件なのか 可能的経験の条件なのか、現実的経験の発生条件なのか を判定するための基準になる。 |
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つまり鈴木先生の言っていることは、 カントを絶対化するのではなく、カントの超越論的哲学を、他の哲学の射程を測るための規準として使うべきだ ということです。 その規準を持っているからこそ、中世哲学、スコトゥス、デカルト、スピノザ、ドゥルーズを、それぞれ別々の思想として読むだけでなく、それぞれが「何の成立条件」を問うているのかという観点から比較できる。ここが一連の発言の要点だと思います。」 |
こっちのほうは満点だそうだ。
むかし浅田彰が「華麗に」説明してたけどね、
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◼️『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人) |
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浅田彰:ドゥルーズは「超越論的経験論」という一見逆説的なことを言っている。ただちに経験論につく前に、いちど徹底的に超越論的であれねばならない、というわけです。 その立場から見たときに、カントはたしかに超越論的領野を発見したけれども、それを経験的領野の引き写しにしてしまうことで、超越論的な探求を中途半端に終えてしまった、ということになる。 つまり、「私とは一個の他者である」というランボーの言葉を先取りするような形で、超越論的な自己と経験的な自己の分裂、見方を変えれば自己の諸能力の分裂を発見しながらも、経験的領野において前提されていたデカルトの「良識(ボン・サンス)」につながるような「共通感官(コモン・サンス)」における諸能力の調和を密輸入することで、そのような分裂をあまりに性急に縫い合わせてしまった、ということになるわけです。 ただし、カント自身、晩年の『判断力批判』において、「美」の共通感官を論じたあと、「崇高」を論じたところで、それを超える方向を示している。その方向を徹底的に突き進めなければならない。 |
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諸能力を、超越論的というより、超越的に使用すること、つまり、それぞれの能力がそれぞれの原理に従って行くところまで行くようにに仕向けてやることで、「ボン・サンス」や「コモン・サンス」の閉域を突き破り、やはりランボーが「あらゆる感覚の錯乱」と呼んだような非人称的な高次の経験へと突き抜けていかなければならない。そのような経験に定位するのが、高次の経験論、つまり超越論的経験論だということになるわけです。 そういう超越論的経験論の次元での超越論的領野は、さらに存在論の次元では「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるんですね。ドゥンス・スコトゥスが「一義的な存在」を提示し、スピノザがそれを「神即自然」として肯定し、ニーチェがさらにそれを動態化して「永遠回帰」と呼んだ。 この動態化のキーになるのは、「回帰とは生成の存在である」という規定で、それが示すのは、アナーキックな生成が行き着くところまで行けば自ずと堅固さ=一貫性(コンシスタンス)を持つ――カオスー彷徨(カオエランス)とひとつであるような一貫性(コエランス)を内在的に獲得するということです。 |
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もはやそれを超越する外部の点をもたないこのような領野が、「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるわけですね。 さらに、ベルグソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的differentielな諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化differenciarionの過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。 このように呼び方はさまざまですが、ともあれ、カオス的な領野があって、そこでは私も世界も多数多様な粒子と流束の群れになっているというわけです。したがって、それは独我論の対極に見える。 しかし、すべてがひとつの「内在平面」の内にあって、私も複数、他者も複数なのだから、そこに他者性はない。その意味で、ドゥルーズの哲学は、過激な独我論――自我さえ必要としないほど過激な独我論だと言ってもいいのではないかと思うんです。 |
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『意味の論理学』(69年)の付録でクロソウスキーとトゥルニエを論じているところを比較してみると、それがよくわかるでしょう。クロソウスキー論で描かれているのはまさに多数多様性の世界であって、カントにおいてまだ保たれていた自我と世界と神の統一性が解体し、すべてが多数多様な変容へと解き放たれる――小説に描かれたアレゴリーで言うと、一個の身体の中に複数の霊が入ったり出たりして、狂気のような永遠回帰のロンドを踊るということになるわけですね。 ところが、トゥルニエ論の方では、そのような世界は実は孤島のロビンソンに対して現れるのだと言っているんです。ロビンソンが一人で島に流れ着く。それは他者のない世界なんですね。ドゥルーズは、他者というのは「可能世界の表現」だと言う。私の知覚野は狭いけれども、他者は私に見えないものが見えているかもしれないし、私に感じられないものが感じられているかもしれないし、そもそも、そのような他者がいるからこそ知覚野が共同主観的構造として整然と秩序化されているのだ、と。しかし、それは現象のレヴェルの問題にすぎない。たしかに、そういう他者がいなくなると、最初、世界の秩序が崩壊して、ロビンソンは非常な苦しみを体験する。しかし、それを突き抜けていくと、ロビンソン自身も島全体がエレマン(諸元素)の群れとなって立ち上がり、コスミックなロンドを踊り始める。フライデーが出てきても、他者としてではなく、すでにエレマンテールなものとして出てくるにすぎない。それがトゥルニエの偉大な独我論的ファンタスムなのだ、というわけです。 |
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それと併せて見れば、ドゥルーズは、ニーチェからクロソフスキーに至る多数多様性のヴィジョンを、むしろトゥルニエ的な独我論の相で見ていると言えるのではないか。 もしそう言えるとしたら。それを具体的な「外」と接合していくきっかけになったのが、交通の人としてのガタリとの遭遇だ、というのが、最初に言った仮説の後半なのですけどね。 |
私は今でもここで浅田が言っていることの半分くらいしかわかっていないけどね、
とはいえキモは先ずはカントの崇高なんだろうよ
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自然における崇高の表象に遭遇して、心は動揺を感じる。他方、自然における美についての美的判断は、安らぎを与える観想のなかにある。崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。 Das Gemüt fühlt sich in der Vorstellung des Erhabenen in der Natur bewegt: da es in dem ästhetischen Urteile über das Schöne derselben in ruhiger Kontemplation ist. Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章) |
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崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている。対象を判断する能力についての不快である。だが同時に合目的である。この合目性を可能とするものは、主体自身の不可能性が無限の能力の意識を掘り起こし、かつ心はこの不可能性を通してのみ、無限の能力を美的に判断しうるから。 Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust über das ästhetische Beurteilungsvermögen an einem Gegenstande ist, die darin doch zugleich als zweckmäßig vorgestellt wird; welches dadurch möglich ist, daß das eigne Unvermögen das Bewußtsein eines unbeschränkten Vermögens desselben Subjekts entdeckt, und das Gemüt das letztere nur durch das erstere ästhetisch beurteilen kann. (カント『判断力批判』27章) |
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で、ニーチェは力への意志の触れつつ、快と不快を語っている。 |
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人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。 快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。 この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。 人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。 |
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不快は、《私たちの力の感情の低減 》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤》なのである。 Die Unlust hat also so wenig nothwendig eine Verminderung unsres Machtgefühls zur Folge, daß, in durchschnittlichen Fällen, sie gerade als Reiz auf dieses Machtgefühl wirkt, – das Hemmniß ist der stimulus dieses Willens zur Macht. (ニーチェ『力への意志』第702番、1888年) |
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おそらく先の浅田が永遠回帰に触れているのはこの文脈ではないか。 |
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力への意志の直接的表現としての永遠回帰[éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance](ドゥルーズ『差異と反復』1968年) |
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・・・というのはあくまでテキトーであり、そもそも私は『差異と反復』をニーチェ、フロイト、プルーストに関わる箇所しか読んでいないし、その部分も半ば忘れかけている。
……………
こうやって私の故障の多い脳髄でも引用を並べるといろいろ結びつくのである。
・・・という具合にボクは書いてるうちにだんだん乱れていくんだ、途中までは能動的に書いてたんだがな、後半は受動的な無意志的記憶に強制されてしまってね。 …………… ※附記 ここでの話とは「直接には」関係ないかもしれないが、柄谷は浅田彰は宇宙人と言ってたな
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先の「超越論的経験論」の説明も宇宙人っぽいよ、少なくとも凡人のボクには。

