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2026年7月2日木曜日

私の幸運(岩井克人ーー加藤周一著作集月報)

 

岩井克人がこの今の円安について何か言っていないかとツイッター検索すると、それは見出せなかったが、こんな文に行き当たった。



今は昔の、日本の究極のインテリゲンチャの話である。ああ、日本のインテリがこんな風に考える時期もあったんだ、と痛みをもった感慨が湧き起こる。文字起こししておこう。


◼️岩井克人「私の幸運」 平凡社・加藤周一著作集 月報21 第21巻 1997年6月

その年の春学期の「日本古典文学」の授業は私たちのアパートの居間でおこなわれました。教授は加藤周一さん、受講者は水村美苗、そして私が聴講者という顔ぶれでした。 一緒に食事をした後にお茶を飲みながらというのんびりした雰囲気のなかで、ちょうど『日本文学史序説』を書いている最中であった加藤さんは、「山家集」や「正法眼蔵随聞記」について実に楽しそうに解説をしてくれました。テクストの内容に興奮してくると、“C'est extraordinaire!" といったフランス語がとびだしてきたりするのです。雪の降るニュー・ヘイヴンの夜道を車でお送りして自分たちのアパートに戻ってきても、しばらく頭の興奮がおさまらず、次の日に教えなければならない経済学の授業の準備に向かう気持ちになかなかなれなかったことを思い出します。


私が加藤さんに初めてお会いすることができたのは、その一年半ほど前の一九七四年の秋のことでした。 イェール大学に職をえてから二年目に入り、英語が一向にうまくならないことに絶望しつつも、アメリカでの教師生活になんとか慣れてきたころでした。 そのイェール大学の日本文学科に、加藤さんが二年間ほど教えにこられることになったのです。


最初の秋学期に加藤さんは小さなセミナーを開きました。それは、翌年に医学部のリフトン教授と共同でおこなう予定の「日本人の死生観」をめぐる講義のための教材作りを兼ねて、乃木から三島までの代表的日本人が死に対する心構えを語った文章を読み、その英訳を試みるというものでした。そのセミナーに水村が参加をゆるされ、そのお供という名目で私もそのなかに入れてもらうことができたのです。 その後二年のあいだ、私は加藤さんの日本映画についてのセミナーも覗くことができましたし、リフトン教授との共同講義も聴講することができました。 そして、加藤さんのイェールでの最後の学期では、たった二人で日本の古典にかんする講義をうけるという幸運にまで恵まれたのです。


ほんとうに私は幸運でした。日本の大学を卒業してすぐアメリカに渡ってから、私は日本では見たこともないような優秀さをもった人間に数多く出会いました。私が接する機会の多かった経済学者や数学者のなかには、圧倒されるほど頭の回転の早い人間が何人もいました。ときたま接する経済学以外の社会科学者や人文学者のなかには、圧倒されるほど幅広い教養をもっている人間が何人もいました。そのアメリカのなかで、私と似た顔かたちをし、私と同じ母国語をもつ人間が、そういう人々をも圧倒するほどの知性と教養を備えているという事実を目の当たりにしたことは、どんなに大きな励ましをあたえてくれたことでしょう。もちろん、加藤さんの頭も育ちも私とはかけ離れています。だがそれでも、日本という辺境に生まれた一人の人間が世界のなかで何らかの意味での知識人として生きていく上での、ひとつの可能性を指し示してくれたことだけは確かでした。 私は自分の幸運に感謝しました。


だが、そのとき私は、自分のほんとうの幸運にはまだ気がついていなかったのです。


加藤さんにもしモデルとした先人があるとしたら、それは森鷗外にちがいありません。その鷗外とナウマンの「論争」については、何度も加藤さんからお話を聞きました。日本が高度に発達した伝統文化を捨て去り、西欧文化の浅薄な模倣に明け暮れているのは残念だという主旨の文章をドイツの新聞に発表したナウマンに対して、医学の勉強のためにドイツに来ていた鷗外が反論を書いた話です。ただちにドイツ語で反論を書けたということは、鷗外がとりわけ優秀な留学生であったことを証拠立てています。だが、その反論はたんなる揚げ足とりにすぎず、鷗外自身、非西欧諸国における近代化のあり方にかんしてナウマンが提起した問題にたいして自分が何も答えていないことを、少なくとも無意識には知っていたはずだというのです。


日本に帰国してからの鷗外は、一方で西欧の近代医学、他方で西欧の近代文学を日本に導入するのに指導的な役割をはたしたわけですが、晩年になって突然江戸時代を題材とした小説や伝記を書き始めることになります。だがそれは、近代化の波とともに押し寄せる西欧文化に対抗して、日本の伝統文化の純粋性を守ろうとしたためではない。阿部一族の死にざまや渋江の五百の生きざまを淡々と語る鷗外の作品は、西欧の近代小説を読みこんできた読者にも深い文学的な感動をあたえます。それは西欧的な理念とは異なった人間性のあり方を描くことによって、まさに「人間」という概念を拡げているからです。もし近代化というものが人間をより人間らしくする歴史的な過程であるとするならば、それはたんなる西欧化には還元しえない近代化の可能性を示しているからです。鷗外は歴史小説や史伝を書くことによって、はじめてナウマンが突きつけた問題にたいするほんとうの解答が書けたのだという加藤さんの言葉は、まさにこういうことを意味していたのだと思います。


加藤さんの話を熱心に聞いていた私は、しかしながら、それをひとつの知識としてしか聞いていませんでした。経済学という学問は、現在では数学を基本的な分析道具とする第二の自然科学といった装いをもっています。 その数学的分析を得意としていた私は、自分の学問的な研究はナウマンの問題とは無縁であると思っていたのです。


それから長い年月を経た一九八九年のことです。私は二年という限られた期間でしたが、ふたたびアメリカの大学に籍を置くことになりました。ただし、今回私がおもに教えなくてはならなかったのは、かつてのような数学的な理論ではなく、それまで真剣には研究してこなかった日本経済についてでした。私は大慌てで内外の基本文献を渉猟し、一夜漬けで講義ノートを作りあげ、教壇に立ちました。


日本経済はその絶頂にあり、教室を埋めつくした六〇人ほどの学生のうちの三分の一ほどは非西欧諸国からの留学生でした。このときです。私が、ナウマンが鷗外に突きつけた問題を自分自身に突きつけられた問題として意識するようになったのは。もちろん、鷗外と私とは置かれた状況がまったく異なります。鷗外は日本が西欧の列強を手本とした資本主義国化への道を歩み始めた時代に生きており、私は日本がすでに西欧諸国と並ぶ資本主義国として確立した時代に生きています。しかし私も、非西欧社会における近代化とは何かという問題を真剣に考えざるをえなくなったということにおいて、あの鷗外と同じなのです。そしてそれは、日本の経済がいかに西欧化を実現したかを描くことでもなく、日本の文化がいかに西欧化を無化したかを描くことでもない。まさに必要なのは、明治維新以来の日本の歴史のなかからーーその成功とその失敗のなかから、「人間」社会の可能性にかんするわれわれの理解を拡げてくれる何ものかをひきだしてくる作業であるのです。


不幸にして、私の下手な英語での講義自体は、熱心に聞いてくれた学生を満足させるものではなかったと思います。だが、少なくとも私自身にとって、それは大きな転機になりました。私は、齢四〇をすぎて、非西欧社会における知識人がはたすべき役割をほんとうに遅ればせながら意識するようになったのです。そして、ようやく、あのニュー・ヘイブンのアパートのなかで、加藤さんからじかにナウマン論争についての話をお聞きできたということの、ほんとうの幸運を知ることができたのです。


実際、加藤周一さんほど、非西欧社会における近代化のあり方というナウマンの問題を持続して考え続けてこられたひとを、私はいまだに知らないのです。



……………


※附記



私にとっての真の経済的知の基盤は、柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』(1978年)、岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』(1985年)、そして二人の対談集『終わりなき世界』(1990年)である。その後、岩井克人の『貨幣論』(1993年)や柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001年)などもあるが、根は先の三書だ。


1941年生まれの柄谷は、1947年生まれの岩井について、《私にとってはどんなことでも話し得る友人》(『終わりなき世界』1990)と言っているが、二人はいつの間にか離反したように見える、おそらく1990年代の半ばあたりから二人はほとんど会わなくなっているのではないか。



ここでは東京大学教授の松井彰彦氏の書評から、若き岩井克人がいかに「俊英」だったかの記述を抜き出しておく。

◼️「経済学の宇宙 岩井克人著」研究と半生を小説風に…書評・松井彰彦 2015年8月30日

大学3年生のとき、著者の「不均衡動学」の講義を受講した。貨幣経済の不安定性を説く壮大な体系で、主流派の新古典派経済学との違いに驚いた。そして、このような一つの経済宇宙を築きあげた著者に畏怖の念を抱いた。本書は、主流派の中での成功を約束されながら、それを捨て、独自の道を歩んだ著者の研究と半生を本格的な小説のような筆致で綴つづった自伝である。〔・・・〕

1969年、学生運動で授業が休講となるなか、著者は日本を脱出するように米マサチューセッツ工科大学(MIT)に留学した。留学してからは一気に「頂点」に駆け上がる。1年次に書いた論文がいきなり一流の専門誌に掲載される。2年次にはノーベル経済学賞受賞者のサムエルソンの研究助手に採用され、講義の代講を務めるなど、破格の信認を得た。〔・・・〕

たったの3年でPh.D.を取得し、ついでエール大学に助教授職を得た著者は「不均衡動学」の研究に邁進する。しかし、時は市場の力を信奉する合理的期待形成学派の全盛時代に入りつつあった。「神の見えざる手」に信を置かない著者の理論は、無神論の如ごとく、学界の潮流と真っ向からぶつかり、砕け散る。ノーベル経済学賞受賞者のトービンは著者に声をかける。「カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている」

1981年、傷心のまま著者は東京大学に就職した。「日本社会の内側の視点からは、東大に就職することは『出世』です。両親も大喜びしていました。ただ、私自身は、世界の学界の中心から離れてしまうという、ある種の悲哀感も感じていました」


ぼくが「不均衡動学」の講義を聴いて感銘を受け、経済学を志したのは、その2年後だった。それから30年余り、日本はバブル期を経て、長期デフレに陥る。時代を先駆けた岩井理論が現代に蘇よみがえる予兆を感じつつ本書を閉じた。


「カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている」というのは、ノーベル経済学賞級の学者なかでの二十年の先駆けということを意味している。


最後に、一般にも比較的わかりやすいだろう、私の好む文をふたつ掲げておく。


資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年)


理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。〔・・・〕


真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)




いや次のセットも掲げておこう、もともと円安について検索したのはハイパーインフレに関してなのだから。


貨幣のバブルーーそれは、人が実際のモノよりも貨幣を貨幣として欲しがることである。その結果、モノ全体に対する需要が減ると、生産や雇用が停滞する不況が始まり、それによって不安をかき立てられた人がさらに貨幣を手元に置き始めると、不況が一層進展し始める。その極限状態が、誰も何もモノを買おうとしなくなってしまう恐慌に他ならない。 


貨幣のパニックーーそれは、 貨幣が貨幣であることに人が不安を抱き、 それを早くモノに換えたいと思うことである。それによってモノの価格全体が上昇しはじめるとインフレになり、貨幣の価値を押し下げる。一層インフレが進展すると人びとが予想し始めると、貨幣をモノに換えようという動きが加速され、さらにインフレを促進してしまうという悪循環に陥ってしまう。その極限状態が、誰も貨幣を貨幣として受け取ろうとしなくなるハイパーインフレなのである。 (岩井克人「自由放任主義の第二の終焉」2008年、pdf


不況(Depression、depression)、熱狂(Manie、mania)、さらには解体(Spaltung、splitting)ーー貨幣的な交換に固有な困難のあり方を形容するためにわれわれがもちいたこれらの言葉が、それぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia = splitting of mind)といった精神病理学的な病名を想いおこさせるのはけっして偶然ではない。精神病理学者の木村敏によれば、躁鬱病とは、自己が自己であるということはあくまでも自明なものとされたうえで、その自己の対社会的な役割同一性が疑問に付されているという事態であり、これにたいして分裂病とは、まさに自己が自己であるということの自明性が疑問に付されてしまう事態であり、自己がそのつど自己自身とならなければならないという個別化の営みの失敗として特徴づけられるという。(『分裂病の現象学』(弘文堂、一九七五)、『自己・あいだ・時間』(弘文堂、一九八一)、『時間と自己』(中公新書、一九八二)、 『分裂病と他者』(弘文堂、一九九O)等の一連の著作を参照のこと。)じっさい、これからわれわれは、不況やインフレ的熱狂とは、貨幣が貨幣であることは前提とされたうえでの、貨幣とほかの商品全体とのあいだの関係において生じる困難であるのにたいして、ハイパー・インフレーションとは、貨幣が貨幣であることの根拠そのものが疑問に付され、その結果として貨幣の媒介によって維持されている商品世界そのものが解体してしまうという事態にほかならないということを論ずるつもりである。すなわち、人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。(岩井克人『貨幣論』第4章「恐慌論」34節「不均衡累積課程から乗数課程へ」注16、1993年)


◼️岩井克人さんが語る米国の自壊 「基軸国」を失う世界で日本の使命は

聞き手・石川智也2025年5月21日

「ドルが基軸通貨でなくなれば、世界中のドルが還流し、米国はあっという間にハイパーインフレとなります。また従来の安全保障体制を解体すれば、同盟国への輸出に支えられた武器産業は傾き、軍事技術の民生転用で優位性を保っていた先端技術も低迷するでしょう。ソフトパワーも落ち、世界はハリウッド映画をだんだん見なくなる……。基軸国でなくなるということは、実体以上に持っていた影響力が消え、特権的地位がもたらしてきた様々な利益を失うということ。実際に米国債が売られ長期金利が上昇し始めたことでウォール街が慌て、米政権内部もようやく自分たちの立場に気付いた節があります。関税政策をめぐる最近の迷走は、それを物語っているように見えます」