東大のPRESS RELEASES▶︎『日本人は集団主義的』という通説は誤り
準拠しているのは高野陽太郎『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』 2008年だそうだ。
納得的なところもあるが強く反発したいところもある。
まずは常識的にこういう議論がされてきた。
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一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年) |
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公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年) |
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思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。〔・・・〕 日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 ) |
これはまずは、一神教国と非一神教国では集団の作り方が違うということだ。
先の柄谷は権力と権威の区別をしていないが、精神分析的には次のような議論がなされてきた。
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重要なことは、権力と権威[power and authority]の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。 It is important to try to understand the difference between power and authority. From a lacanian point of view, power always concerns a dual relationship, meaning: me or the other . This supposedly equal relationship amounts to a bitter competition in which one of the two has to win over the other. Authority on the other hand, always concerns a triangular relationship, meaning me and the other through the intermediary of a third party. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Social bond and authority, 1999) |
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権威と権力の相違は三項関係と二項関係の相違だ。 |
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三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。a dualistic logic where there is a choice of either me or the other, and thus points to the fact that the oedipal situation has not been worked through symbolically. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009) |
ここでいくらか飛躍して言うが、日本は非言語的な二者関係集団、先の浅田彰曰くの《われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄》としての集団、他方、欧米は主に言語統制による三者関係集団、可視的であるゆえに抵抗しやすい集団ではないか。もちろん1968年の学園紛争を契機にエディプス的父の凋落で欧米自体、二者関係集団になりつつあるというアスペクトはあるが、そうは言っても一神教文化の残滓がある。
こういう問いをまったく無視して「『日本人は集団主義的』という通説は誤り」なんてのは大いに反発したいね、それともなんらかの言及があるんだろうか。
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ところで、フロイト・ラカン的には三者関係というのは自我理想を通した象徴的同一化集団、二者関係集団というのは理想自我での想像界同一化集団だ。
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簡単に用語解説をしておこう。 まず理想自我との同一化。 |
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理想自我は自己愛に適用される[Idealich gilt nun die Selbstliebe](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
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理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である[Le moi-Idéal [ i'(a) ] est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué par la série des identifications ](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
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理想自我との同一化は想像界的的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986) |
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次に自我理想との同一化。 |
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自我理想は指導者のなかに具現化された集団の理想と交換される[Ichideal…es gegen das im Führer verkörperte Massenideal vertauscht.] (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年) |
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要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique](Lacan, S24, 08 Février 1977) |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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ラカンの象徴界的同一化のマテーム I(A)は、フロイトの『集団心理学』からの自我理想である[le mathème de l'identification symbolique de Lacan, I(A) …l'idéal du moi …à partir de la Massenpsychologie](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) |
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というわけで理想自我との同一化は互いにナルシシズム的投射、他方、自我理想との同一化は集団の理想を言語的に取り入れる。 |
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投射は想像界の機能であり、取り入れは象徴界に関係する機能である[La projection est fonction de l'imaginaire, tandis que l'introjection est en relation au symbolique.](J.-A. MILLER, Extimité II - 20 novembre 1985) |
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もちろん自我理想の言語的な「三者関係的同一化」の後に理想自我とのイマジネールな「二者関係的同一化」もあるのだが、日本的環境では前者がほとんど機能しておらず事実上、イマジネールな同一化だけの集団ではないのではないかという仮説が導き出される。
もっともかつての日本では礼儀の法が機能していた可能性はあるが。
そもそもーー別にややこしいラカンに準拠せずともーー、かつては言語論で次のような議論がされた。あの東京大学の社会学者集団はこれをどう扱ってるんだろ? |
◼️日本語は敬語であり、一人称も三人称もなく二人称しかない。 |
実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕 何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年) |
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年) |
つまり日本文化は汝文化、二人称文化である。 |
「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年) |
いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収) |
日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
時枝の名高い風呂敷論の話も掲げておこう。
◼️時枝誠記の風呂敷論 |
時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収) |
主体的な総括機能或いは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めるならば、A is Bに於ける“is”であって所謂繋辞copulaである。copulaは即ち繋ぐことの表現である。印欧語に於いては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位して、これを統合する。従ってこれを象徴的に、A-Bの形によって表すのであって、copulaが繋辞と呼ばれる所以である。右のような総括方式における統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼んでいる。この様な形式に対して、国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。 花咲くか。 といった場合、主体の表現である疑問の「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包む且つ統一しているのである。この形式を仮に図をもって示すならば、 |
の如き形式を以て示すことが出来る。この統一形式は、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う。(時枝誠記『国語学原論』) |
ボクはこの記事をある言葉を隠蔽しつつ記してきたが、最後にやっぱり言っておこうーーあの東京大学社会学者集団はひどく甘いんじゃないか、と。
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実はボクは須賀敦子の熱烈なファンでね、 |
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池内紀)去年だったかな。『朝日新聞』の書評委員会で、書名をずっと読み上げるでしょう。それで『社会学は何ができるか』という書名が読み上げられたとき、須賀さんがはっきり通る声で、すぐ合いの手を入れた。「何もできない」って(笑)。ぼくもずっとそう思っていたんだけれども勇気がなかったからいえなかった。前に社会学の先生が二人おられたし……(笑)(『追悼特集 須賀敦子』河出書房新社、1998年) |



