もうだいぶ前の書だが、深尾葉子さんのタガメ女とカエル男の話は実に面白いね、
|
◼️「日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体」(深尾葉子、2013年) |
|
女はガッチリと男を捕まえて、月一万円という小遣いで身動きがとれないようにし、チューチューと夫の収入と社会的なリソースを吸いつくす。男たちはといえば、最初はバタバタともがくも、やがて諦めたようにグッタリとして、ゆっくりと収入やリソースを吸い尽くされ、最後は骨と皮になって死んでいく。 いえ、なにも専業主婦の方たちを批判しているわけではありません。ただ、見方によってはこのような関係になっている男と女というのは、日本ではかなり多いのではないでしょうか。 「扶養家族」という言葉が示すように、女性は養われる存在というのが、戦後の日本では長く一般的でした。 そう聞くと、男性が女性を選択しているように思うでしょうが、現実は女性のほうが男性に「選ばせる」ように仕向けているとはよく言われるところです。つまり、 「本当は女性のほうが男性を選び、逃げないように捕まえているのだ」 と。そんなアグレッシブな女性たちと、タガメが妙にかぶってしまったのです。 |
|
似ているのは捕食方法だけではありません。 男性に養われる、つまり収入とリソースを吸い尽くすためには、自由を奪って、ガッチリと家庭に縛り付けるということが必要になってきます。 女性にとっては「自由を奪う」ということがかなり大切な能力のひとつになってくるのです。これをやや古風な言いまわしで、「箍(たが)をはめる」と言います。つまり、妻というのは男に箍をはめる女、箍女と言えなくもないのです。 タガメの語源は「田亀」であり、田んぼに棲む亀虫(カメムシ)からきているそうなので、もちろんこれは偶然の一致でしょうが、驚くほど両者のイメージは重なります。 カエルに箍をはめて肉を吸い尽くすタガメ。 男に箍をはめて金や社会的地位を吸い尽くす箍女。もしかしたら実は「箍女」のほうが語源なんじゃないかしら、と疑ってしまうほどです。 |
|
世の中にはタガメのような女が溢れ、カエルのような男を捕食し、ゆっくりと死にいたらしめている、という「恐ろしい現実」に気づいてしまった私はさっそく、この概念を周囲の人々や、学生たちに伝えてみました。 すると、 先生なにをアホな妄想をしているんですか、と呆れられるどころか男も女も前のめり。 次から次へとこんな証言も寄せられたのです。 「私の友だち、何匹ものカエルを吸いまくっている最強のタガメ女です」 「あいつはカエル男や!いや、あいつもそうや!」 「もしかしたら私もタガメ女かもしれません・・・・」 なんてカミングアウトもあれば、二〇代の男子学生はうなだれながらこんな言葉を洩らしました。 「あかん。オレの父ちゃん、カエル男や…..」 こうしてタガメ女とカエル男というのが、私の頭のなかで作り上げられた妄想ではなく、多くの人が口には出していないもの心のどこかで感じていた根源的な人間関係だということが次々と明らかになったのです。〔・・・〕 |
|
「箍」にはめられることで、精神どころかサイフまで奪われてしまう。そんな男性たちに同情する方も多いかもしれませんが、以外にも当事者たちはそれに不満を感じていません。いや、正確には不満を感じていても、「これこそが幸せだ」と自分自身に言い聞かせているのです。これを私は「幸福の偽装工作」と呼んでいます。
|
これは今だけの話ではなく、かつ実際は日本だけの話でもないかもしれないがね。
|
男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。(芥川龍之介『侏儒の言葉』) |
|
|
|
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される … Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』1983年) |
|
大カトー、すなわちマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス Marcus Porcius Cato Censoriu (紀元前234年 - 紀元前149年)だって似たようなことを言ってるよ。 |
|
諸君、我々一人一人が各家庭で夫の権威と権利を守り抜いていたら、こんなことにはならなかったはずですぞ。今や事態はここまで来た。女がのさばり、家庭でのわれわれの行動の自由を粉砕しただけではあきたらず、広場におけるわれわれの自由をさえ粉砕にかかっているのではないか。法が男性の権利を保証している間でさえ、女たちをおとなしくさせ、勝手なことをさせないために、どんなに苦労してきたか、よくお分りと思う。もし女どもが法的にも男と同等の立場に立つならいったいどうなることか、よくよくお考えあれ。女というものをよく御存知の諸君、かりに連中がわれわれと同等の地位に立つとすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ。どこの世界でも男たちが女を支配しておる。ところが世界の男たちを支配する男たち、つまりわれわれローマ人がだ、女たちに支配されることになるのですぞ。(大カトーの演説――ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」) |
引用が長くなったが、実はここではこの話が主ではなく、中井久夫の『治療文化論』をパラパラやってたら「タガメ教師とカエル研究者」として読める文に再会して、「タガメ女とカエル男」を想起したのである。
|
この際に、職業的精神科医の“研究文化”が精神科医・非精神科医の双方にはめているタガについて一言したい。 文化精神医学の論文は、医学論文ひろくは科学論文としての作法にしたがって執筆される。そのように執筆されたものでないと、編集委員会において、もし委員たちが“開かれた”マインドの持ち主ならば「発想はよいのだけれど」、そうでなければ「論文の態をなさず!」の付箋とともに返却される強い傾向がある。このための研究者の自己規制は、公衆の理解をほとんど超えるものである。民間学者の研究が微笑(あるいは冷笑)とともに無視されるのはこのためである。研究者の最初の五年のトレーニングの中にこの作法を身につけ、このタガをみずからはめるためにカリキュラムがあり、相当の時間と精力をついやして遂行される。これが身についてはじめて研究者という自己規定が自他に承認されるからである。 |
|
この“研究文化”が自己認識に達しえないのは、そこのルールに従い、そこの「満足の基準」を満たすことを念頭に置いてはたらくのが研究者であることが、研究者自体のみならず、その家族、親族、友人、地域社会、公衆、ジャーナリズムによって支持されているからでもある。「学者は(社会の)まなざしによってつくられる」面もある。反骨の民間学者の著述もしばしば卑屈な(あるいは然るべき)この“研究文化”への追従(あるいは敬意)に満ちている。 注意すべきは、現在、文化精神医学をふくめて、医学ひいては科学の論文が、その掲載する、ほとんどは欧米の雑誌編集委員によって審査されるということである。日本において欧米の書のみを「原書」と称する慣習こそ弱まったが、「国際雑誌」なる語があり、「これに載った」とは、必ず欧米の“一流学術雑誌”に掲載されたことなのである。〔・・・〕 |
|
冷厳な事実は、1990年現在なお、日本文化圏より産出される論文は、いわば秀才の生徒が教師に提出する形で、欧米の、しばしば二流学者である編集委員に採点されるのである。〔・・・〕 欧米雑誌編集者が投稿論文をしばしば剽窃することは1950年代すでに林髞(慶大生理学教授、作家「木々高太郎」)の警告するとおりであり、さもなくとも、第二級の論文を歓迎しても、第一級の論文は故意かあらずか遅延され、類似論文が先行掲載されることは、少なからぬ日本文化圏の研究者がなめた苦杯である。 私もその列を末席を汚し、以後私たちのグループーー当時私はウイルスと細胞レセプターの相互作用を解析する生物学者であったがーーは、断然チェコスロバキアの雑誌を投稿先に選んだ。彼らとはきわめてよい関係を結び、当時入手困難の辞典などが送られてきた。もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。 |
|
養老孟司が英語論文を断乎やめて日本語で書くことを励行し、せめて日中合同の雑誌をつくろうと念願しておられるのは、氏も苦杯を甞めたか、甞めた同僚知己を身近かに持つからであろう。〔・・・〕 ただし、完備した欧米の“研究文化”に属する「国際雑誌」編集委員でも、心ある人の憂えているのは、真のオリジナルな論文を逸することである。真の革命的な論文は、ほとんどつねに当初は体裁のととのわない、いびつな構成の奇妙な代物として、研究エスタブリッシュメントのトップを構成する彼らに映じるからである。この盲点を究極はまぬかれぬとしても、彼らがそれを意識していること自体が重要である。わが国の諸先生にこの意識があるか否か。 |
|
(中井久夫『治療文化論』1990年) |
実際、若い頃は「こいつはきわめて優秀そうだな」と思った研究者が、博士課程に進んだり博士号を獲得したりした後は、「なんだか凡庸化されちまったな」と感じることがままあるよ。ボクがそう感じるのは人文系や精神分析系の連中だがね。
特に21世紀の支配的イデオロギーであるフェミニズム宗教にタガメられるんだろうよ。
|
◼️ドリス・レッシング ーーノーベル文学賞作家であり、かつての英国フェミニズム運動のアイコンーーの2001年の発言 |
|
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、「継続的に、女たちに貶められ、侮辱されている」。[men were the new silent victims in the sex war, "continually demeaned and insulted" by women without a whimper of protest.]〔・・・〕 フェミニズムは批判できない宗教の一種になっている。もし批判したら大義への裏切り者になる。[It (feminism) has become a kind of religion that you can't criticise because then you become a traitor to the great cause] (ドリス・レッシング Doris Lessing, Lay off men, Lessing tells feminists, The Guardian, 14 Aug 2001) |
|
◼️カミール・パーリアーー米国フェミニズム文化の爆弾女ーーの2013年の発言 |
|
フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女のようだ。〔・・・〕フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。Feminism is dead. The movement is absolutely dead. The women’s movement tried to suppress dissident voices for way too long. There’s no room for dissent. It’s just like Mean Girls. 〔・・・〕Feminist ideology is like a new religion for a lot of neurotic women. (カミール・パーリアCamille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture, November 16, 2013) |
なんたって女を敵に回したら、本が売れないだけでなく、大学で授業さえまともにできないだろうからな。
|
そういえば、吉行淳之介が既に1962年にこう言ってたがね。 |
|
現在の天下の形勢は、男性中心、女性蔑視どころか、まさにその反対で女性が男女同権を唱えるどころか、せめて男女同権にしていただきたいと男性が哀訴嘆願し失地回復に汲々としている有り様だ。(吉行淳之介「わたくし論」1962年) |
|
ーータガメ女とカエル男ってのはかつてからの「常識」じゃないかい? もしあなた方がキャベツ頭でないなら。 |
|
通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen]…完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen] (ニーチェ『この人を見よ』1888年) |
|
|
…………
|
こう記していて急におもいだしたが、大江健三郎の『取り替え子』にも田亀が出てくるな。 |
|
それが吾良のライフスタイルのひとつで、映画作りの力にもなった小物集めの才能を発揮すると、魅力あるジュラルミン製の小型トランクをつけてくれた。それには五十巻のカセットテープが収められてもいたのである。吾良の映画の試写会場で受けとり、持って帰る電車のなかで、白い紙ラベルにナンバーだけスタンプで押したカセットを田亀に入れてーー実際、そのように機械を呼ぶことになったーー。ヘッドフォーンのジャックを挿し入れる穴を探していると、つい指がふれてしまったか、テープを入れると再生が自動的に始まる仕組みなのか、野太い女の声の、ウワッ! 子宮ガ抜ケル! イクゥ! ウワッ! イッタ! と絶叫する声がスピーカーから響き、ぎゅう詰めの乗客たちを驚かせた。その種の盗聴テープ五十巻を、吾良は撮影所のスタッフから売りつけられて、始末に困っていたらしいのだ。 かつて古義人はそうしたものに興味を持つことがなかったのに、この時ばかりは、百日ほども田亀に熱中した。たまたま古義人が厄介な鬱状態にあった時で、かれの窮境を千樫から聞いた吾良が、そういうことならば、その原因相応に低劣な「人間らしさ」で対抗するのがいい、といった。そして田亀を贈ってくれたついでに、確かに「人間らしさ」の一表現には違いないテープをつけてくれたのだ、と後に古義人は千樫から聞いた。千樫自身は、それがどういうテープであるかを知らないままだったが……(大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』2000年) |
|
深尾葉子さんが《タガメ女とカエル男というのが、私の頭のなかで作り上げられた妄想ではなく、多くの人が口には出していないもの心のどこかで感じていた根源的な人間関係だということが次々と明らかになったのです。》と言ってるように、やっぱりタガメは究極の「人間らしさ」だろうよ。 |
ーー《男が女と寝るときには確かだな、…絞首台か何かの道のりを右往左往するのは。…もちろん女がパッションの過剰に囚われたときだがね。[un monsieur couche avec une femme en étant très sûr d'être… par le gibet ou autre chose …zigouillé à la sortie. ……Ceci bien entendu reste à la rubrique des excès passionnels]》(Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
