ははあ、桑原旅人くんは日本を代表する哲学者のひとり鈴木泉氏に向けてやってるな
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愛憎コンプレクス[ Liebe-Haß-Komplex](フロイト『鼠男』第2章、1909年) |
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憎悪は対象にたいする関係としては愛よりも古い[Der Haß ist als Relation zum Objekt älter als die Liebe](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
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愛は非常にしばしば「アンビヴァレンツ」に、つまり同一の対象にたいする憎悪衝動をともなって現れる[Liebe …daß sie so häufig »ambivalent«, d. h. in Begleitung von Haßregungen gegen das nämliche Objekt auftritt. ](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
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あるいはーー、 |
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憎悪は愛の親である[la haine est parente de l'amour](ラカン, S24, 10 mai 1977) |
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とはいえ精神分析に依拠せずとも「哲学者」ニーチェが既に言っている。 |
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わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ[Hat man Ohren für meine Definition der Liebe gehabt? es ist die einzige, die eines Philosophen würdig ist. Liebe – in ihren Mitteln der Krieg, in ihrem Grunde der Todhaß der Geschlechter. ](ニーチェ『この人を見よ』1888年) |
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哲学研究者はもっとニーチェを読むべきだよ。 |
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ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう[Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.](フロイト、於ウィーン精神分析協会会議1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung) |
………………
ところで桑原旅人くんの日本ラカニアンコミュニティ連中への攻撃は憎悪じゃないんだろうか。さて?
ここでニーチェの戦争実施要項を掲げておく。
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攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの生長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーーあるいは、どれほど手ごわい問題を、求めているかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいということではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。…敵と対等であることーーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない[Wo man verachtet, kann man nicht Krieg führen; wo man befiehlt, wo man etwas unter sich sieht, hat man nicht Krieg zu führen.] |
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わたしの戦争実施要項[Meine Kriegs-Praxis]は、次の四箇条に要約できる。 第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。 第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。 |
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第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。 第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第7節、1888年) |
桑原旅人くんの「戦争」はこの要項にそれなりに当てはまる箇所がないではない、と「だけ」ここでは言っておこう。ま、そもそもこのニーチェは文字通りとる必要はなく彼のユーモアであるだろうから。
ところで、ニーチェは次の連中を愛したのかね。
私の我慢ならない者ども。 ――セネカ、すなわち、徳の闘牛士。 ――ルソー、すなわち、不純な自然的なものというかたちをとった自然への復帰。 ――シラー、すなわち、ゼッキンゲンの道徳のラッパ手。 ――ダンテ、すなわち、墓穴のなかで詩をつくる鬣狗。 ――カント、すなわち、英知的知性としての偽善的口調 cant。 ――ヴィクトル・ユゴー、すなわち、無意味の大海のほとりに立つ大灯台。 ――リスト、すなわち、流麗さの学校 ――ご婦人たちによれば。 ――ジョルジュ・サンド、すなわち、乳のはった豊満、平たく言えば、「美しいスタイル」の乳牛。 ――ミシュレ、すなわち、上衣を脱ぎすてる感激。 ――カーライル、すなわち、辞退した昼食としてのペシミズム。 ――ジョン・スチワート・ミル、すなわち、侮辱的な明晰さ。 ――ゴングール兄弟、すなわち、ホメロスと戦う二人のアイアス。オッフェンバックの音楽。 ――ゾラ、すなわち、「悪臭を発する歓び。」 ーー Meine Unmöglichen. - Seneca: oder der Toreador der Tugend. - Rousseau: oder die Rückkehr zur Natur in impuris naturalibus. - Schiller: oder der Moral-Trompeter von Säckingen. - Dante: oder die Hyäne, die in Gräbern dichtet. - Kant: oder cant als intelligibler Charakter. -Victor Hugo: oder der Pharus am Meere des Unsinns. - Liszt: oder die Schule der Geläufigkeit - nach Weibern. - George Sand: oder lactea ubertas, auf deutsch: die Milchkuh mit "schönem Stil". - Michelet: oder die Begeisterung, die den Rock auszieht… Carlyle: oder Pessimismus als zurückgetretenes Mittagessen. - John Stuart Mill: oder die beleidigende Klarheit. - Les fréres de Goncourt: oder die beiden Ajaxe im Kampf mit Homer. Musik von Offenbach. - Zola: oder die Freude zu stinken. - |
(ニーチェ「或る反時代的な人間の遊撃」第1節、『偶像の黄昏』所収、1888年) |
おっと、シオランの「毒舌のすすめ」が向こうからやってきたな、
ニーチェ、プルースト、ボードレール、ランボーが流行の波に流されず生き延びたのは、彼らの無私な残酷さ、悪魔的な鋭利さ、そしてその毒舌の惜しみなさのおかげである。作品を長続きさせ、時代遅れにさせないのは、その凶暴さである。根拠のない主張だって?福音書の威信を考えてみたまえ。あの攻撃的で、毒に満ちた書物を。 |
(エミール・ミハイ・シオラン『苦渋の三段論法』Emil Mihai Cioran, Syllogismes de l'amertume, 1952) |
