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「日本ラカン協会とその仲間たちによる「イジメ」」がいくらか読まれているようだが、そこで引用したジャック=アラン・ミレールの次の文ーー、 |
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「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから[l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.](J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3) |
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このより具体的な意味はこうだよ、▶︎「享楽の対象とそれに対する防衛としての自己イマージュと大他者」 aが享楽の対象=喪われた対象aであり、上辺のi(a)が自己イマージュ、Aが大他者。詳しくはリンク先を参照。 |
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で、さらに「ラカン協会のイジメ」でこの図を貼り付けたがね、 |
そこのキミはリンク先「言語と身体」を読まずに何やら言っているようだが、ラカンの自我が象徴界ではなく想像界なのはわかってるよ。
リンク先にはこう記してある。
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ラカンは想像界の自我と象徴界の言語を分けた。だが、《想像界は象徴界に支配されている[cet imaginaire est en même temps dominé par le symbolique]》. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
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想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes… et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955) |
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つまりフロイトの自我は大他者(言語)に結びついており、快原理内にある。 ーー《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien]》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97) …………… |
で、欲望は象徴界の言語に関わるのは次の文だ。
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言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ](Lacan, E628, 1960年) |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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他方、享楽(欲動)は現実界の身体の穴に結びついている。 |
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
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享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
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穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
というわけで欲望ばかりに汲々としているラカン派なんてのはーー日本にはそういうヤツが多いがーー自我心理学やってるだけで、エスを忘れてるんだ。
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フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる。[…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (ラカン, S7, 03 Février 1960) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
自我心理学じゃなく「下男心理学」と言ってもいいがね。
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自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
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自我はただ単にエスの助力者であるだけでなく、エスに服従する下男である[Es (das Ich) ist nicht nur der Helfer des Es, auch sein unterwürfiger Knecht,](フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
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つまり欲望は欲動の下男だよ。 |
しかし日本にはいまだもって欲望好きのラカニアンが多いんだが、不思議でならないね。
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後期ラカンの教えには、欲望のデフレがある[C'est dans le dernier enseignement de Lacan …est …une déflation du désir. ]〔・・・〕 ラカンはその教えで、分析実践の適用ポイントを欲望から享楽へと移行させた。ラカンの最初の教えは、存在欠如[manque-à-être]と存在の欲望[désir d'être]を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認の解釈を指示した。 Lacan déplace aussi le point d'application de la pratique analytique du désir à la jouissance. Le premier enseignement repose sur le manque à être et sur le désir d'être et prescrit un certain régime de l'interprétation, disons, l'interprétation de reconnaissance.〔・・・〕 |
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しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因 [la cause du désir]を扱う別の時期がある。それは、存在欠如は、たんなる防衛としての欲望、存在するものに対しての防衛として扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在するのか。それはフロイトが欲動と呼んだもの、ラカンが享楽の名を与えたものである。 Mais il y a un autre régime de l'interprétation qui porte non sur le désir mais sur la cause du désir et ça, c'est une interprétation qui traite le désir comme une défense, qui traite le manque à être comme une défense contre ce qui existe et ce qui existe, au contraire du désir qui est manque à être, ce qui existe, c'est ce que Freud a abordé par les pulsions et à quoi Lacan a donné le nom de jouissance. (J.-A. MILLER, L'être et l'un, 11/05/2011) |
欲動=享楽というが、事実上、固着なのであって重要なのは固着の反復分析。
それはこの投稿で記した▶︎「フロイトの思考のラカンマテームでの翻訳」
ここでは二つの図だけ掲げておこう。
このジャック=アラン・ミレール図はフロイト用語なら次のもの。
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享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
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分析経験の基盤は厳密にフロイトが固着[Fixierung]と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
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固着は、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002) |
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原初の現実界の出発点は「異者としての身体[Fremdkörper]」として居残って効果をもったままである。これは、身体的な何ものかがどの症状の核にも現前しているということである。より一般的なフロイト理論用語では、いわゆる欲動の根[Triebwurzel]あるいは固着点[Stelle der Fixierung]である。ラカンに従って、われわれはこの固着点のポジションに対象aを置くことができる。 the original real starting point remains effective as a “foreign body.”… the fact that something of the body is present in the kernel of every symptom. In the more general terms of his theory, this is the so-called “root” of the drive or the point of fixation . Following Lacan, we can place the object (a) in this position. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004) |
ーー《残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
だから先の「享楽の対象」図も実際はこの固着の残滓=異者身体がある。つまり享楽は自己イマージュあるいは大他者で防衛されるが防衛し切れない残滓が固着だ。
なお異者としての身体[Fremdkörper]はモノ[das Ding]と等価である。
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[自我に]同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
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同化不能の異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年) |
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我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
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固着されたモノ[die Dinge fixieren](フロイト「フリース宛書簡」 16. 3. 1896) |
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常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
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異者としての身体は…本来の無意識としてエスに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.](フロイト『モーセと一神教』3.1.5, 1939年、摘要) |
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なお「異者としての身体は邦訳では「異物」と訳されてきた。 |
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一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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チョロいラカン研究者の寝言書を読むより、中井久夫を読むほうがフロイト・ラカンの核心を掴むのによっぽど役に立つぜ➤中井久夫の「トラウマ研究」のいくつか |
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例えば、次の文は欲望分析は誤謬はあっても秘密はないと読み替えうる。 |
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精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。 この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
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で、《それ以前の世界に退行した患者が難問》とは前エディプス期の固着への退行である。 |
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固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年) |
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前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年) |
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これまた何度も掲げているが、古井由吉の幼少の砌の髑髏への固着の話がある。 |
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頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。 小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年) |
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古井由吉は固着への退行の疼きを書き続けた作家である。これも同様、チョロい日本のラカン派研究書よりははるかにためになる。 |
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◼️2015年03月22日 西部邁ゼミナール 古井由吉2 歴史と文学 YouTube |
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古井由吉:一九四五年、敗戦の年に僕はまだ満で八つにもならないんです、幼児ですよ。でも空襲ということに関しては自分を戦中派と感じています。幼児にもかかわらず切羽詰まった体験をしてしまった。さてその記憶の問題なんです。恐怖の記憶を維持するのは難しい。もろに維持したら生きられない。 特に火の中を逃げ惑う。目の視覚的記憶は保たれる。見るということは対象化することですから。そのぶん突き放すことができる。怖いのは耳です。これは物凄い恐怖に押し入られる。耳を塞いで走るわけにはいかないでしょう。 耳を塞げないので遮断するんです。特に記憶の中で遮断する。その記憶を中年に入ってから少しずつ掘り出していって、まだ掘り出し切れない。これが僕の現状です。〔・・・〕 音にもろに押し入られたら動けない。立ってもいられない。だからそのときからしてどこかで遮断しているんです。幼児の記憶だとなおさらのことです。これをだんだんに掘り出すのは、実はあまり嬉しいことではありません。でもこれは僕が生きるのに必要なことだろうと思う。 でないと自分というものがわからない。人に対する態度もとりにくい。へたをすると気が狂う恐れもある。そういう意味もあって少しずつ掘り出した。何かの大きな音を聞いて空襲のときのことを思い出すのではなくて、むしろ音が静まったときにどこか耳の奥から聞こえてくる。 (『西部邁発言①「文学」対論』所収) |
次のリンク先には私が気づいた範囲での小説自体の記述が列挙してある。



