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2026年8月29日土曜日

若い人はいまのうちに精一杯美味いもの喰っとくことだな

 

ボクは折に触れて次の古井由吉の「遺言」を掲げてきたがね。


近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。

その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

しかし現在の苦境は、我が国ばかりでなく世界全体がひとつの限界域に、展開の限界に踏み入りつつあるところから、来るのではないか。〔・・・〕

あくまでも一旦の限界であり、終末を思うにはあたらないのだろう。ここを克服すればその先に地平が開くと考えられる。しかしまた、この苦境は、いずれ春になれば、というような風にしては、しのげないもののようだ。(古井由吉『楽天の日々』「節を分ける時」2017年)


まぁ、これはやっぱりアタリだったんだよ、2015年の時点で《五年先か十年先か》と言ってるわけでね、今年2026年、今年末、少なくとも来年は世界大恐慌が訪れるだろうからな[前投稿参照]。


あと数ヶ月はまだ安泰かもしれないから、若い人はいまのうちに精一杯美味いもの喰っとくことだな。既婚者でも、この際、三度の飯以外の美食を可能な限り試みることだよ。


三度の飯は常食にして、佳肴山をなすとも、八時(おやつ)になればお茶菓子もよし。屋台店の立喰、用足の帰り道なぞ忘れがたき味あり。女房は三度の飯なり。立喰の鮓に舌鼓打てばとて、三度の飯がいらぬといふ訳あるべからず。家にきまつた三度の飯あればこそ、間食のぜいたくも言へるなり。此の理知らば女房たるもの何ぞ焼くに及ばんや。  (荷風『四畳半襖の下張』)



ちなみにボクが言ってる「若い人」というのは、少なくとも五十代までは含まれるからな。



十代 金子光晴



  十代


 僕の十代には、戰爭があって、

號外の鈴がいまでも、

耳にちりちり鳴っているが、

あの頃は、遠い霞のむこうだが、


 それでも、十代はたのしかった。

空は晴れて、瑠璃いろだったし

誰もしらないたのしいことが、

もちきれないほどたくさんあった。


二十代


 子供が大きくなったばかりの

二十代は腕白で、理不盡だ。

おもちゃを他人(ひと)に取られたように、

『あの娘(こ)が來ない』と泣きわめく。

失戀などということも二十代なら、

可笑しいどころか、いたいけなもので、

しんじつ慰めてやりたくなる。

そして、わが身をふりかえって、

も一度、二十代が來ないものかと

おもうのだが……。


三十代


 三十代と言えば、經驗もあり

先の見通しもきく筈なのに、

僕の三十代はいちばん苦勞が多く、

貧乏で、裸で、旅から旅ばかり、

三十代はもともと火の手の强い年代だが

僕の三十代は、戀愛もなく、野心もなく、

このばかやろがせいぜいのところで、

ほんとうにがらくたな三十だった。

上海で踝を踏んだ女の首を、パリの場末のバーの皿のうえにのってるのをみたヨカナンのように。

                       ――一つの白い腹に二つの臍のある女

四十代


 四十代になるのはやさしいことだ。

人は、ずるずると年をとるからだ。

花でいっぱいな人生にも、

輕石だらけな人生にも、

おなじように四十代が通りすぎる。

だがこの年頃のパズルは一番むずかしい。

これくらいの所というのも未練が多いし、

はじめからやり直すには、根(こん)がない。

塒(ねぐら)に歸りそこねて檣(マスト)の上を廻るはぐれ鳥、

あの鳥の鳴聲のあわれが耳に今も離れぬ。


五十代


 五十代とは、なんと、

しのこしたことの目に立つ年頃か。

そのくせ、やり直すには少し手遅れ。

「お若くみえます」などと言われると、

じぶんでもつい、そうかと思う。

だが、試すだけは試した方がいい。

見はてぬ夢とか、老らくとか

言われるほどの年ではない。

帆柱會の用も、蛇酒も無用、

まだまだ、自力で立つべきだ。


六十代


 六十代ともなれば男も、女も、

生えてくる毛がどこも、白い。

染毛劑はよくなったろうが、

染めている姿が困る場所もある。


 從って、萬端、むさくるしく、

人目に立つのがひけ目になるので、

出會茶屋の入口をくぐる勇氣もなく、

さあ、これからは何を賴りに生きるか。


ひとには言えないことではあるが、

娑婆氣の殘物(あら)は、どこへすてたものか。


七十代


 七十歲というのは、

毛ごみのようなものだ。

毛ごみのなかにまじった、

干柿の種のようなもの。


 七十歲では戀人も來ない。

來てもなにもすることがない。

毛ごみを捨てた一匹の虱が

シルクロードを西に步いた。


 灰皿につめた煙草の煙が

その影を落す砂の風紋を越え、

戀人の膝を求めて旅をする。

七十歲を忘れるために。


八十代


 おいくつです?

いけません。もう八十です、ということになってしまった。

 親子兄弟妹と六人がとうに死んで、

のこっているのは僕一人だが、これは、

いったいしあわせなことか不仕合せか。

 とも角元はとったあとの、

利息のような日々なのだから、

遠慮勝ちに生きてればいい筈なのだが、

若いもののつもりでなくては氣に入らない。




ボクはもうすぐ七十代だからな、もういいよ、美食は。



大江なんかまだ五十代のときに《ヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね》なんて書いてるがね、



暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっていたのを、僕は立て直そうとした。〔・・・〕


炎の起こったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた。マニ教の秘儀ではないが、切磋琢磨する性交をつうじて、生ぐさい肉体に属するものは、根こそぎアンクル・サムに移行し、まり恵さんには精神の属性のみが残ったようだ……


もっともまり恵さんは、僕がスカートの奥に眼をひきつけられているのに気づくと、両腿を狭める動作をするかわりに、あらためて疲れと憂いにみちているが、ベティさん式の派手な顔に微笑を浮べ、かならずしも精神プロパーではない提案をした。さりとて肉体プロパーでもなかったはずだが……

ーー今後もう私には、あなたと一緒に夜をすごすことはないのじゃないかしら? それならば、元気をだして一度ヤリますか? 光さんが眠ってから、しのんで来ませんか?


――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。


ーーつまりヤラなくていいわけね。……私も今夜のことを、懐かしく思い出すと思うわ、ヤッテも、ヤラなくても、とまり恵さんはむしろホッとして様子を示していった。(大江健三郎『人生の親戚』1989年)



これはないよ、五十代だったらしっかりヤッとかないと。


もっとも逆に懐かしく思い出すのはヤラなかった女のほうという面はあるだろうがな。


若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。Combien y en a-t-il dans nos souvenirs, combien plus dans notre oubli, de ces visages de jeunes filles et de jeunes femmes, tous différents, et auxquels nous n'avons ajouté du charme et un furieux désir de les revoir que parce qu'ils s'étaient au dernier moment dérobés ? (プルースト「ゲルマントのほう」)


たしかにヤッちまった女のほうこそ、はやばやと忘れちまうかもな、

もしも汝の裂け目がただ一筋の線にあらざるならば、死をもいとわじ。Rimula, dispeream, ni monogramma tua est.(テオドール・ド・ベーズ Théodore de Bèze

我らのリビドーが満たされるや忽ちかつての誓いを反故にす。postquam cupidæ mentis satiata libido est, Verba nihil metuere, nihil perjuria curant.(ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullus)

愛は欲された主体を享楽しようとする渇きに他ならない。性行為は自分の器を空にする快楽にほかならない。 l'amour n'est autre  chose, que la soif de cette jouyssance en un subject desiré :  Ny Venus autre chose, que le plaisir à descharger ses vases (モンテーニュ『エッセイ』第3巻第5章「ウェルギリウスの詩句について」)



やあプルーストとモンテーニュのせいで話が逸れちまったが、ここで言いたいのは、ふつうの生活があるのはあと数ヶ月だからその時間を貴重に扱えよ、ということだ。オワカリダロウカ?