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2015年4月23日木曜日

ジャクリーヌ・デュ・プレと"man eater"





二人の若い男に見まもられて歯並びの悪い若い女が
ピアノを学んだものなら懐かしいKuhlauのソナタを弾いている
その過剰な情熱を抑えきれないさまは
米国の三文青春映画に出てくるあけっぴろげで下品な牝のようだ
という人がいるかもしれない
技術的にはけっして高くない指が
初心者練習用でもあるこのソナタを
これこそが音楽を歌うことだというようにして
躰全体で演奏している
音楽がはじまれば撮影のことなど一切忘れてしまう
カメラを向ければときに恥じるような表情をみせもするこの乙女は
ここでは一切の衒いを捨て
音楽の歓喜 あるいは官能の体現者かのようだ
《音楽の官能性とは単に聴覚的なものではなく、
筋肉的なものなのです》(ロラン・バルト)
傍らに密着するようにして佇む縮毛の美男は
彼女の強烈な情動の力に圧倒されてか
女の躰に触れる誘惑から逃れがたく
技術的指導の仮装を恥じながら
しぶきをあげる官能の渦巻に吸い込まれるようにして
乙女の掌に触れ左腕を持ちあげてみる
ああ女神の腋窩の股が開け放たれ
ほのかに汗ばんだ女神の体臭が匂い立つ
そうしてなんという歓びの白い歯の輝き!
画面の右隅に背をまるめてピアノの寄りかかって
時おり歎声の合いの手を洩らす大男
その横顔がわずかに窺えるだけだが
普段はいかめしいインド哲学者の風貌を
きっと陶然とさせていることだろう
この二人の親しい友は親密なまなざしを交し合い
そこに悦楽の女神も入り乱れ
三人の笑顔は波紋のように泡立つ





ーー彼女のピアノ演奏、このふたつのどちらも、フレーズの入り方がなんとすばらしいことだろう!

ジャクリーヌ・デュ・プレは、バレンボイムと21歳で結婚したのだが、この映像の時期にはおそらくすでに配偶関係にあったのだろう。28歳、1973年秋に多発性硬化症となり、引退を余儀なくされた彼女は、このときは後年のおそらく苦渋の生活の影はないはずであり、そこにある種の「はかなさ」をみてしまうのは、のちの不運から振り返った遡及的な印象にすぎないだろう。バレンボイムの歓びにあふれた表情はどうだろう、彼の二度目の相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、二人はデュ・プレの最晩年にはパリで同棲生活に入っており、二人の子をもうけていたとのことだが、だからといって文句をいう筋合いはない。


…………

ーーとは、かなり以前に書いて(前々ブログ)消去してしまった文だが、サドとカントの関係をいくらか探っていたらジャクリーヌをめぐる記述に遭遇したために、再掲したものである。どんな文かといえば、《she was reported to be a serial "man eater."》なるものだ・ ・ ・

"man eater."とは「男を手玉にとって次々と捨てる女」と説明的に訳されることもあるようだが、男たらし、男喰い、男漁り等々の類でもあるだろう。

というわけで、--なにが「というわけ」か知らないがーー「KANT AND SADE: THE IDEAL COUPLE」(SLAVOJ ZIZEK.)から英文のまま貼り付ける(訳す気にはならない)。

The exemplary case of the "pathological," contingent element elevated to the status of an unconditional demand is, of course, an artist absolutely identified with his artistic mission, pursuing it freely without any guilt, as an inner constraint, unable to survive without it. The sad fate of Jacqueline du Pré confronts us with the feminine version of the split between the unconditional injunction and its obverse, the serial universality of indifferent empirical objects that must be sacrificed in the pursuit of one's Mission.8 (It is extremely interesting and productive to read du Pré's life story not as a "real story," but as a mythical narrative: what is so surprising about it is how closely it follows the preordained contours of a family myth, the same as with the story of Kaspar Hauser, in which individual accidents uncannily reproduce familiar features from ancient myths.) Du Pré's unconditional injunction, her drive, her absolute passion was her art (when she was 4 years old, upon seeing someone playing a cello, she already immediately claimed that this is what she wanted to be…). This elevation of her art to the unconditional relegated her love life to a series of encounters with men who were ultimately all substitutable, one as good as the other-she was reported to be a serial "man eater." She thus occupied the place usually reserved for the MALE artist-no wonder her long tragic illness (multiple sclerosis, from which she was painfully dying from 1973 to 1987) was perceived by her mother as an "answer of the real," as divine punishment not only for her promiscuous sexual life, but also for her "excessive" commitment to her art… 

だれか他にも似たようなことをいっていないかと、探ってみれば、(Per)versions of Love and Hate( Renata Salecl)にもある。とはいえ、Renata Saleclはジジェクの元妻(前々妻)であり、この二人が似たようなことを言っていてもなんら信憑性が高まるわけではない。




このジジェク夫婦、というか元夫婦は血迷っているんじゃないか? 
まったく同じようなことを二人して書いて! 
愛しいジャクリーヌを! 
これだからラカン派の解釈好きというのは許し難い!
自分の姉の旦那と寝るぐらい誰でもやるだろ!


バレンボイムも数ある男のうちの一人ということになるのか? 
彼は性戯は凡庸そうな印象を受けないではないが。
いやいや、妄念だ、シツレイ!

ーー何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ、ジャクリーヌ!

「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?」
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)

ところで、ほかにも次ぎのような記事に行き当たった。

I read recently a newspaper interview with Hilary's husband, Christopher (Kiffer) Finzi, in which he confides to all in the most vulgar street language that Jackie, in bed with multiple sclerosis, ''phoned up and asked me to come over'' for sex.(Romantic Ideal