不快感を抱くのは、この東南アジアの土地に長らく住んで、標準的な日本人よりは韓国人や中国人に接する機会が多いせいもあるかもしれない。つまりこの土地に移り住んでいる韓国人や台湾人と一緒にテニスをしたり、食事を一緒にしたりする。あるいは、キムチ、酒肴、海苔、昆布、煮干や韓国製の味噌・麺などを電話一本で配達してくれる、かつて在日朝鮮人だった食料品の初老の店主もいる。彼らはなにも言わないが、どうも彼らに接すると、いささか居心地が悪くなってしまう。日本でのあの現象がなくてさえ、かつて彼らの家に土足で上がりこんだ蛮族の末裔であるという後ろめたい心持をときに持たないでもなかった身だ。
わたくしが日本人の様子を垣間見るのは、ツイッター上でしかないが、その大半は、「元しばき隊」の連中を中心にした活発な反レイシズム言動を脇目なのか無視なのかは知らないが、我関せずの涼しい顔で、無駄話に終始している。反韓・反在日の書籍の破廉恥な流通は、白昼集団いじめとでもいうべきものだと思うが、彼らは「選択的非注意」の機制によるものなのか完全無関心な様子が苛立たしい。
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」)
無関心・無視というのは、中立の立場ではない。嫌韓嫌中イデオロギーの流通を支え、強化さえしている振舞いだ。
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)
ツイッター文化というものがあるとするなら、あれらの現象にまったく無関心であると想定せざるを得ない大半の〈あなたたち〉は、あの場で日々、極右権力の道具としての役割を担っている。
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、……(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
とはいえ、わたくしもレイシストの一人であることをーー少なくともそうであったことをーー否定するつもりはない。
岩井) ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ。日本のコマーシャルに典型的に出てくるあの白人崇拝というのが、逆方向のレイシズムでしょう。アジア蔑視、白人優越主義の裏返しですよね。もちろん、いろいろな肌の色の有名人も出ますけれど、それは有名人だからなだけです。つまり下士官根性の現われなわけですよね。上に媚びて、下に威張るというね。明治以来、日本は常にそうだったと思うんですね。そして、それと同時に、白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。(柄谷行人 岩井克人対談集『終わりなき世界』)
要するに島国共同体の村人たちなのだ、我々は。
わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)
労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)
そして、日本のような閉ざされた島国ではない開かれた国々においてさえ、レイシズムが猖獗している現在だ。今年初めの仏『シャルリー・エブド』事件のおり、少し調べてみたことがあるが、ムスリムたちは、「郊外」という名のゲットーに隔離されているようなもので、仏の「自由・平等・博愛Liberté, Égalité, Fraternité」の理念とは大違いの実状であり、結局、あそこで支配しているのは、《自由、 平等,、所有そしてベンサム(Freiheit, Gleiheit,EigentumundBentham)》(マルクス『資本論』)のベンサム(功利主義)でしかない。
ラカンは早くも六〇年代に、今後数十年の間に新たなレイシズムが勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するだろうと予言した。…最近のナショナリズムの激発は、おそらくラカン自身もここまで予想外しなかったであろうと思われるほど、予感が的中したことを…証明している。…この突然の衝撃は、一体どこからその力を引き出しているのだろうか。ラカンはその力を、われらが資本主義文明の基盤そのものを構成している普遍性の追求の裏返しとして位置づけている。マルクス自身、すべての特殊な・「実体的な」・民族的な・遺伝的な結束の崩壊こそ、資本主義の決定的な特徴であるとしている。(ジジェク『斜めから見る』1991 p302)
資本主義、すなわちもっと具体的に言えば、世界資本主義であり、 「グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する」ということになる。絶え間なく増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムの時代なのだ。これは殆ど構造的な現象だといっていいのだろう。
悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち)
たとえば、この先十年後二十年後にレイシズムがいまより衰えると想像できる人がいるだろうか。ますます盛んになるに決まっているのだ。
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出)
今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)
なんの歯止めもなくなり資本の欲動のなすがままの今であり未来だろう。それがジジェクのいう「悲劇」である。資本の欲動? 「彼らはそれを知らないが、そうする"Sie wissen das nicht, aber sie tun es" 」(マルクス)のだ。
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になった瞬間である。」(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』)
…………
わたくしは1995年に日本から逃れたのだが、それ以降、日本は相対的にかなり貧しくなった。若い連中は、かつてのような余裕もなくなっているのだろう。
二年ほどまえ、若い「社会思想史」を研究しているらしい院生だと思われる若者のツイートに行き当たり、ひどく印象に残っている。
・生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。
・でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。
・みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。
ここであわせて東浩紀氏のツイートも掲げておこう。
東浩紀@hazuma: ぼくは第二次大戦については、戦争悪いとかとは別に、いちどあれだけリベラルでモダンになった日本が急速に竹槍とかモンペ一色になっていく、その文化的墜落にいつも衝撃を受けるのよね。その点では、この15年ほど似たような墜落が生じていると感じていて、このあと戦争がなかったとしても嫌だ
@hazuma: いまはバブル世代や団塊ジュニアって評判悪いけど、95年までの日本はどうのこうのいいながら余裕があって、嫌韓本がベストセラーになったりすることはなかった。それは単純にいいことなんじゃないですかね。「戦わなければ生き残れない!」とか、そりゃそうかもしれないけど、基本下品ですよ。
…………
他人の振舞いにひどく不快感を覚え、非難したくなるときに諌めの言葉としてフロイトとプルーストの次の文章をしばしば思い出す。要するに、ツイッター上にて、この「オレ」の昔の似姿に遭遇するからいっそう苛立たしいのだろう。
……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。
ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 Ⅱ 井上究一郎訳)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」)