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2015年4月23日木曜日

「あんた私の祖国に土足で上がりこんでさんざん荒らした日本人なのね」

「あんた私の祖国に土足で上がりこんでさんざん荒らした日本人なのね」

ーーわれわれはそのとき生まれてなかったんだから、日本人って言われたって関係ないよ、と応じたくなるところだ。

生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(加藤周一「今日も残る戦争責任」『加藤周一 戦後を語る』所収)  

――で、貴君たち、まずは考えてみろよ、《戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続》しているかどうか?

加藤周一は『20世紀の自画像』(ちくま新書 2005)の「あとがき」に、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次のように書いている。

個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。

戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。

その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。

何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。

私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。

それ以外にも、貴君たちの嫌韓なるものは、次ぎのメカニズムが働いていないかどうか?

「《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

「あいつは俺に親切だったか」はここでは保留しよう、だが「俺はあいつにひどい仕打ちをした」に相違ない。日本の植民地支配のことである。われわれは負い目があるから謙虚になるのではない。負い目があるからこそ、あいつを憎むのだ(たとえば嫌韓・嫌中)。

犯罪者は、単に自己の予め受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。(……)共同体は犯罪者を除斥するーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文「「負い目」、「良心の疚しさ」・その他」木場深定訳 P81)

…………

ふだんなら、ここでジジェク=ラカンを続けるところだが、カボチャ頭にラカンでもないだろうからやめておくよ。

いやさわりだけ、引用しておくか。たとえば「在特会」に代表される連中の嫌韓における「在日」は、次の「ユダヤ人」の役割を担っていないかどうか、すこしでも疑ってみる才覚はあるのかい?

主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
彼がユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)
ヒトラーのものとされる言明、「我々の内のユダヤ人を殺さなければならない」。A. B. Yehoshuaは妥当なコメントをしている。「このユダヤ人の破滅的な表現、嗅ぎつけることも制御することも出来ないまま、非ユダヤ人のアイデンティティに侵入するとらえどころのない実体としてのユダヤ人、この表現は、ユダヤ人のアイデンティティがひどく融通無碍である感情から発している。というのは、まさにその核が、変化してやまない電子軌道におけるヴァーチャルな電子に取り巻かれているある種の原子のように構造化されているからだ」。

この意味で、ユダヤ人は実際上、非ユダヤ人の対象aである。「非ユダヤ人のなかにあって非ユダヤ人以上のもの」、私の目の前で遭遇する月並みの主体ではなく、私の内のエイリアン、異人、ラカンがラメラと呼んだもの、無限の可塑性をもった侵入者、不死の「エイリアン」である怪物、それは決してある限定された形に突き止めるておくことのできないものである。

この意味で、ヒトラーの言明は、それが言いたい以上のことを言っている。それが意図された意味に反して、非ユダヤ人は、己れのアイデンティティを維持するために、「ユダヤ人」という反ユダヤ主義の形象が必要なことを裏づけている。ーーヒトラーが致命的につけ加えるのを忘れたことは、反ユダヤの彼、彼のアイデンティティもまたユダヤ人の内にある、ということだ。

ここには、ふたたびカントの超越論主義とヘーゲルの相違を位置づけることができる。この二人がとも見るのは、もちろん、ユダヤ人という反ユダヤ主義の形象は具体的なreifiedものではなく(ナイーヴに言うなら、それは「本当のユダヤ人」には合致しない)、イデオロギーの幻想(「投影」)であり、「私の目の中に」あるものである。ヘーゲルがつけ加えたことは、ユダヤ人を幻想する主体は、彼自身、「絵の中に」いるということだ。すなわち、まさに彼の存在自体が、「現実界の欠片」としてのユダヤ人の幻想に決定づけられているのだ。反ユダヤ主義のアイデンティティを取り除いたら、それを幻想している主体自身がばらばらになってしまう。肝腎なのは、客観的現実における「自己」の位置、「私が客観的にあること」の不可能な現実界における「自己」の位置ではない。そうではなく、私はいかに私自身の幻想の中に位置づけられているか、いかに私自身の幻想が、主体としての私の存在を支えているかである。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

…………

閑話休題。

ラカンによれば、症状概念を発明したのは、カール・マルクス以外の誰でもない。

人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。彼が最初に資本主義と何かの間に関連性を樹立したのだから。何か? 古き良き時代の、我々が呼ぶところの、封建時代さ(ラカン S.22)

資本主義時代になって、主人と奴隷の関係は「抑圧」されて、あたかも皆、自由で平等な主体であるかのようだが、抑圧されたものは回帰する。新自由主義時代の奴隷は、ツイッターで戯言囀ったり、RTしたりファボしたりしている「自由」な〈君たち〉だよ。

そして貴君たちのお気に入りの対象=主人は、次ぎのメカニズムが働いた存在だ。

ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)
己れを王と信じる狂人は、己れを王と信じる王より狂っているわけではない。(ラカン)

せいぜい王としての証人=識者を顕揚したらいいさ、自由だと思い込んでいる「奴隷」たちよ!

大衆化社会では)ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ーーオレかい? オレも奴隷から免れているわけないじゃないか。この文章ーー五分ほどで仕上げたーーが証明してるだろ

とはいえ、すくなくともオレは奴隷であるだろうことを常に疑う意志はあるさ、貴君たちと違ってね。

定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。(スピノザ『エチカ』第ニ部精神の本性および起源について)
スピノザは、われわれは情念を意志によって操作できない、だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由であると考える。

彼は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに”自由”だと思い込んでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』より)