スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。
相手の人間に愛をそそられるよりも、相手にすてられることによって愛をそそられるのは、ある種の年齢に達した者の運命で、その年齢は非常に早くくることがある。すてられていると、相手の顔面はわれわれに不明瞭で、相手の魂もどこにあるのかわからず、相手を好きになりだしたのもごく最近で、それもなぜなのかわからず、ついに相手のことではたった一つの事柄しか知ろうとしなくなる。つまり、苦しみをなくすためには、どうしても相手から、「お会いになっていただけるでしょうか?」という伝言をわれわれのもとにとどけさせる必要がある、という一事だけだ。「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」とフランソワーズが告げた日の、アルベルチーヌとの離別は、ほかの多くの離別の一つのアレゴリー、むしろひどくは目立たない一つのアレゴリーといってもよかった。ということは、われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)
私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく、間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」)
知りあう前に過ちを犯した女、いつも危険な状態にひたりきった女、恋愛の続くかぎり絶えず征服し直さねばならない女がとくに男に愛されるということがある。(プルースト「 囚われの女 Ⅱ」)
……その後、ホテルへの狭い坂道を辿る途中で抱きしめあうことにもなった。吾良は勃起を感じとらせぬよう腰を引く配慮をするどころか、この夜はむしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった。(大江健三郎『取り替え子』)
私たち二人は、連れだって夕食をとりに出かけた。私は階段をおりながら、ドンシエールを思いだした、ドンシエールでは私は毎晩外出してホテルのレストランでロベールと顔をあわせた、また私は忘れていたほかの小さな食堂のあれこれを思いだした。そんな一つの部屋が回想によみがえった、まだ一度も思いかえしたことがなかったその食堂は、サン=ルーが夕食をとることにしていたホテルにはなかった、それはもっとずっと粗末な、旅館と下宿との中間のようなホテルにあった、そしてそこではおかみさんと女中の一人とか給仕してくれた。雪が私をそこに足どめしたのだった。それにロベールはちょうどその晩はホテルで夕食をとることになっていなかったし、私は足どめされたそこより遠くへ食事に行きたくなかった。私に料理がはこばれてきたのは、階上の、全体が木造の小さな部屋だった。食事中にランプが消え、女中が私のためにそうそくを二本ともした。その私は、彼女に皿をさしだしながら暗くてよく見えないふうを装い、彼女がその皿にじゃがいもを入れているあいだに、まるで彼女の手をとって誘導しようとするかのように、片方の手で彼女のむきだしの前腕をにぎった。その前腕をひっこめないのを見て私はそれを愛撫した、それから、ひとことも発しないで、彼女のからだをそのままぐっと私のほうにひきよせ、ろうそくの火をふきけした。そうしておいて、お金をすこしやるつもりで、ポケットをさぐるようにといった。それにつづいた数日のあいだ、肉体的快楽が満喫されるには、単にこの女中だけでなく、そんなにも孤立した木造のこの食堂が必要であると私には思われた。((プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」)