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2015年11月18日水曜日

1970年に20歳であった少女




一般に第二次インドシナ戦争(1960年12月 - 1975年4月30日)、あるいはわたくしの現在住んでいる国では対米抗戦あるいは対米救国戦争と呼ばれる戦争は、当地での感覚ではそれほど昔のことではない。たとえば1970年に20歳であった少女は、いままだ65歳である。




そしてゲリラ戦とはある意味で「テロ」的な戦い方である。かつて20歳だった少女たちが、わたくしに向ってかつての記憶をベラベラと喋るわけではない。だがときおりふと洩れる言葉を聞くことができる環境にわたくしは住んでいる。彼女たちは銃をもった感触をその軀に記憶している。

そしてその後訪れた大量難民時代に海外にでた知り会いならいくらでもいる。いまだ海外に住んだままでテト正月に帰って来る親族だけに限っても10人前後いる。海外にある時期居住して現在こちらに帰って来ている友人たちの数をここで数えあげるのはやめておこう。

たとえば現在アロエジュース工場を営んでいるテニス仲間の一人は、オーストラリア国籍だが、彼は大量難民時代に東ドイツの大学で化学の博士号をとっている。その後ドイツに住むのが居心地が悪くなったらしく、オーストラリアに住むこれまた難民の親族を頼って移住している。そしてドイモイ後、当地に帰郷した。彼はドイツ語辞書の編纂者でもある。

もうひとりのテニス仲間は隣国からのクメール難民だ。彼は左手の小指がない。彼の娘はわたくしの妻としばしばダブルスのペアを組む。美しい娘だが当地ではなかなか結婚できない。35歳をすぎてようやくカンボジア出身の配偶者を見出した。

ようするに身近に戦争あるいはテロの記憶、難民の記憶をもって生きている人たちがたくさんいる環境にわたくしは住んでいる。

だからテロにも難民にも、70年平和が続いた島国日本の標準的な〈あなたがた〉よりはすこしは関心が深いだろう、ということだけだ。〈あなたがた〉は自らの関心の分野に専念しておればよろしい。

世界には、「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間がいる。それはあくまで「ある出来事」に対してであり、〈あなたがた〉も別の出来事に対しては「それでも知りたい」人間であるはずだろう。ひとつも「それでも知りたい」ことのない人間は、わたくしは信用しない。





※附記:「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間をめぐって。

……最近になって、ある新聞記事を読むまでは、南ヴェトナムの子供たちがどれほど殺されたのかということも、ほとんど知らなかった。一九六一年から六六年まで、ナパームで爆撃された南ヴェトナムの村では二五万人の子供が死んだ」とその新聞の記事は報告していた、「七五万人が手肢をもぎとられ、負傷し、火傷を負った……」(記事のもとになったのは、米国のカトリックの学校で、子供のための研究所を指導していた人のヴェトナム視察報告である。)そこに書かれていた数字は、正確ではなかったかもしれない。しかし故意に誇張されていたのではなかっただろう。たとえ殺された子供が、二五万人でなく、実は二〇万人であったとしても、三〇万人であったとしても、そのことの意味に変わりはない。それをどうすることも私にはできない。とすれば、なんのために、遠い国のみたこともない子供たちのことを、私は気にするのであろうか。――その「なんのために」に、私はみずからうまい返答を見出すことができない。
新聞記事を読んだ日の夕方に、私は旧知の実業家とハンガリア料理の店で、夕食をしていた。(……)久しぶりで会った私たちは、飲食の評判をしたり、最近の下着の流行の話をしていた。(実業家の若い妻君は、そういうことに詳しかった。)私はそういう話が少しつづいたところで、「どうも経済的繁栄の第一の徴候は、瑣末主義のようですな」といった。私はそれを、自ら嘲りながら、皮肉な冗談としていったのである。しかし実業家の妻君は、それを真面目な非難としてうけとったらしい。「それはどういう意味ですか」と彼女は笑わずに反問してきた。「ヴェトナム戦争の真最中に、私たちが出会って、流行の袖の長さが一糎長いか短いかという話をしているということですよ」と私は説明した。「いいじゃないか」と実業家はいった。「二五万人の子供が殺されている、という話を知っていますか」「ぼくは信じないね」「そう気軽にいいなさんな」と私はいった、「そもそもあなたは、ヴェトナム戦争についてはどんな初歩的なことも知らないのでしょう。交戦している一方の側の言分は漠然と知っていても、他方の側の言分は一度も読んだことさえない。ジュネーヴ協定の内容も、三国監視委員会の公式報告も見たことがない。それでは、私のいったことが、ありそうもない、と考える根拠もないでしょう。基礎資料を見もしないで、ぼくは信じない、などといっているから、あなた方は、ナチが何百万人も殺してしまった後になって、強制収容所と毒ガス室のことは知らなかった、といい出すのだ。彼らは知らなかったのではなく、知りたくなかったのだ。あなたが信じないのではなく、信じたくないのだ……」。 
「ぼくはそういうことを知りたくないね、平和にたのしんで暮したいのだ」とその実業家はいった、「知ったところで、どうしようもないじゃないか」――たしかに、どうしようもない。しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間とがあるだろう。前者がまちがっているという理くつは、私にはない。ただ私は私自身が後者に属するということを感じるだけである。しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、また少なくとも、出発することがある、ということにすぎない。二五万人の子供――役にたっても、たたなくても、そのこととは係りなく、そのときの私には、はるかな子供たちの死が気にかかっていた。全く何の役にもたたないのに、私はそのことで怒り、そのことで興奮する。……(加藤周一『羊の歌』1968--「古きよき日の想い出」の章 P167 )


加藤周一は『続 羊の歌』「格物到知」の章で同じような議論を繰り返して書く。

いくさの間語り合うことの多かった旧友の一人は、中国の戦線へ行き、病を得て還った。戦後の東京で出会ったときに、「政治の話はもうやめよう」と彼はいった。「ぼくはひっそりと片すみで暮したいよ」「しかし君を片すみからひきだしたのは戦争だね、戦争は政治現象だ」と私はいった。「戦争はもう終ったではないか」「政治現象は、決して終らない」「しかしどうにもならぬことではないか」「たとえどうにもならないことであるとしても」とそのときに私はいった、「ぼくはぼくの生涯に決定的な影響をあたえたし、またあたえることのできるだろう現象を、知りたいし、見きわめたいと思う。たとえどうにもならないとしても、女房の姦通の相手を知りたいと思うのと同じことだ」「ぼくは知りたくないね」と彼はいった。「それは、どうにもならないから、ではないだろう。知りたくないということがまずあって、どうにもならない、という理くつがあとから来るのだ」「そうかもしれない、そうしておいてもいいよ」「しかしその理くつはおかしいのだ。君はしずかに暮したいという。しずかに暮らすための条件は、君の女房の行動よりも、もっと決定的に、われわれの国の政府がどういう政策をとるかということだ。それは知りたくない……」「何も知らずに暮しているのが、いちばん幸福だね」と彼は呟き、私は彼を理解していた。いくさの傷手は、私の想像も及ばぬほど深かったにちがいない。それは私の想像も及ばぬ経験があったからだろう。もはやそれ以上いうことは何もなかった。しかし私は物理的にそれが不可能でないかぎり、私自身を決定する条件を知らなければならない。歴史、文化、政治……それらの言葉に、私にとっての意味をあたえるためには、私自身がそれらの言葉とその背景につき合ってみるほかない。(『続 羊の歌』P183-184)


そして、85歳時の加藤周一の講演でも繰り返される。

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(第2の戦前・今日  加藤周一 2004)www.wako.ac.jp/souken/touzai06/tz0605.pdf
第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。

戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。

八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。

武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。

知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。(同)

…………

外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終ったそうである。(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」『時のしずく』所収)

ーー何度か記しているが、わたくしはこの現場に「偶然」遭遇した。そしてわたくしは1995年に日本をでている。

君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に

ーーー『美わしのベンガル』ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅之訳より

◆ベルギーに移住したベトナム難民の娘のBonjour Vietnam - Pham Quynh Anh



一般的に、池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。中途放棄こそ許されないからである。「医師を求む」と車中で、航空機中で放送される度に、外科医でも内科医でもない私は一瞬迷う。私が立つことがよいことがどうか、と。しかし、思いは同じらしく、一人が立つと、わらわらと数人が立つことが多い。後に続く者があることを信じて最初の一人になる勇気は続く者のそれよりも大きい。しかし、続く者があるとは限らない。日露戦争の時に、軍刀を振りかざして突進してくるロシア軍将校の後ろに誰も続かなかった場合が記録されている。将校は仕方なく一人で日本軍の塹壕に突入し、日本軍は悲痛な思いで彼を倒した。(中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収)

少子化の進んでいる日本は、周囲の目に見えない人口圧力にたえず曝されている。二〇世紀西ヨーロッパの諸国が例外なくその人口減少を周囲からの移民によって埋めていることを思えば、好むと好まざるとにかかわらず、遅かれ早かれ同じ事態が日本にも起こるであろう。今フランス人である人で一世紀前もフランス人であった人の子孫は二、三割であるという。現に中小企業の経営者で、外国人労働者なしにな事業が成り立たないと公言する人は一人や二人ではない。外国人労働者と日本人との家庭もすでに珍しくない。人口圧力差に抗らって成功した例を私は知らない。好むと好まざるとにかかわらず、この事態が進行する確率は大きい。東アジアに動乱が起こればなおさらである。アジアに対する日本の今後の貢献は、一七世紀のヨーロッパにおけるオランダのように、言論の自由を守り、政治難民に安全な場所を提供することであると私は考えている。アジアでもっとも言論の自由な国を維持することが日本の存在価値であり、それがなければ百千万言の謝罪も経済的援助もむなしい。残念ながらアジアにおいてそういう国は一七世紀のヨーロッパよりもさらに少ない。政治難民が数万、数十万人に達する時に、かつての関東大震災の修羅場を反復するか否かが私たちの真価をほんとうに問われる時だろう。それは日本が世界の孤児となるか否かを決めるだろう。難民とは被災者であり、被災者差別を論じる時に避けて通ってはならないものである。『中井久夫「災害被害者が差別されるとき」 ーー異質なものを排除するムラ社会の土人