ヘレニズム期といえば、ギリシャ文明の衰退期と、かつてはーーすくなくともわたくしの世代はーー教えられているはずだ(朧な記憶で書いているが)。
たとえばWIKIPEDIAのヘレニズムの項には次のようにある。
アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称する場合がある。この文脈でヘレニズムの語を用いたのは、19世紀ドイツの歴史学者ヨハン・グスタフ・ドロイゼンである。ドロイゼンの功績は、それまでマケドニアによるポリス征服までが古代ギリシア史の重要範囲とされていたため、ほとんど省みることがなかった征服以降の時期に脚光を当てたことである。これによって、多くの研究者の関心がこの時代に向かい、研究が前進することになった。
この機会に、すこしネット上を当ってみると、市井の方だろうが、トインビーの『歴史の研究』1972年を訳されている方がいらっしゃる(現在進行中で三分の二はどの訳出である→PDF)。英原文と横並びになっており、わたくしは今のところ冒頭をいくらか覗いてみただけだが、すばらしい仕事をなさっておられる。
…………
※附記
二千年前、アレクサンドロス大王の征服によって生じた広大な世界のどこにおいてもギリシャ共通語が通用した。政治的、経済的、文化的に共通のスタイルがあった。ヘレニズム世界である。現代ギリシャ語が方言の幅の少ない言語なのも、言語がここで一度統一されたからである。
われわれはヘレニズムを軽視しがちであるが、これは西欧のヘレニズム侮蔑を引き継いだものである。古典時代のアテネにタイムスリップしたならば、たいていの人は戸惑うだろう。黄金と象牙の巨大な神像や極彩色の神殿はエジプトかインドと見まがう。文学を語る友に出会うのはまず望めない。喧騒を極める、魚くさい広場〔アゴラ〕。奴隷や捕虜の群れ。ペレポネソス戦争時代に生きる過酷さは現代のボスニア地域とさほど変わらない。劇だけはすばらしいと思うだろうが。
人々がこれこそギリシャだと思うのは実はヘレニズム世界のものだ。ミロのヴィーナスもだ。専門の科学者、文学研究家集団があり、図書館が整備され、多少の政治的腐敗は不公平はあっても、優雅と頽廃と平和と普遍的人間性とが、人間が実現しうる限度内で、ほぼ存在した。矛盾葛藤と倦怠と虚無とを知っているという意味でも現代的な時代である。記紀歌謡と古今集とを同時に読むと、どちらかが必ず色褪せてみえる。ヘレニズム文学と古典ギリシャ文学も同じだと思う。では今ヘレニズム文学がそれほど読まれないのはなぜか。手近かで平俗であって、そのためわざわざ難しいギリシャ語をやるまでもないということかもしれない。わが現代文学と江戸文学との距離か。(中井久夫「現代ギリシャ詩人の肖像」初出「ふらんす」一九九三年四月号~一九九四年二月号)
アーノルド・J・トインビーは「人類は二つの問題――“悪”と彼は言っているーーを解決するための努力をして成功していない。それは『戦争』と『階級』である」と断言している。彼は不当に無視されているが偉大な歴史学者である。少なくともヘレニズム時代の研究者として第一級であり、「すべての歴史は同時代的である、古代ギリシャであってもアッシリアであっても現代イギリスであっても」という彼の洞察には共鳴する。彼が英国の学界に無視されるようになったのは、ヘレニズムを平和で学術の栄えた時代として内戦を繰り返した古典ギリシャ期よりも称賛したためであることは知られていない。それは西欧文化が自己の正統性を古典ギリシャ・ローマの直系に求めている信仰への挑戦であって、カヴァフィスのようなアレクサンドリアの詩人にして初めて許されることだったのである。(中井久夫「精神医学と階級性について」初出1991『記憶の肖像』所収)
用語としてのヘレニズムの歴史は古代ギリシアにさかのぼる。 古代ギリシアでは, ヘレニズムは, 「正しいギリシア語」 を意味する, 文法に関わる用語であった 。 キリスト教を受容したローマ, ビザンツ帝国の時代には, ヘレニズムは 「異教信仰」 を含意し, キリスト教に対立する概念として理解された 。
今日, ヘレニズムという語の最も一般的な定義は, ドイツの古代史家ヨハン・グスタフ・ドロイゼン (1808~ 1884) によって与えられたものであろう。 ドロイゼン は , 1830 年代から1840 年 代 に , 『 ヘレニズムの歴 史 』 全 3 巻(Geschichte des Hellenismus) を出版した。 ドロイゼンは, ギリシアの古典古代が終焉したあとの, 斜陽の時代として軽視されていた, マケドニアのアレクサンドロス大王とその後継者の時代に光をあてた。 彼は, ヘレニズム(Hellenismus) を, アレクサンドロスと後継者の時代にみられた, 地中海からインドにまで広がる, ギリシアと東方の融合した時代を指す語として用いた。
ドロイゼンは, この時代を, ギリシアと東方の文化が最高のかたちで統合された時代であると見なしたのである。 今日においても, 彼の時代区分にしたがって, アレクサンドロス大王の即位 (前 336 年) から, ローマ帝国のオクタヴィアヌスがアクチウムの海戦でプトレマイオス朝エジプトに対して勝利した時(前 31 年) までを, 一般にヘレニズム時代と呼ぶ。(村田奈々子「近代ギリシアにおけるヘレニズム概念について」2013)
※附記
二十世紀後半、詩歌の乏しい時代のさなか、スペイン、南米と並んでギリシャ詩の質のよさは次第に認識されてきたといってよいであろう。私などが、多くの先達を措いて、その一端を紹介するのは、おこがましい限りであるが、まだしばらくは許されるだろうと勝手に思うことにする。
依頼を受けてから、さまざまに想を練った。スペインの文学的再生は一八九八年の米西戦争における祖国の敗北と切っても切れない関係にある。実際、それを担った人々は「一八九八年世代」と呼ばれる。同じように、現代ギリシャの文学は、第一次大戦後の対トルコ侵攻の果ての、首都アンカラ正面サカリア河畔における一九二一年八月の無残な敗北、また、翌年八月から九月にかけて起こった「ギリシャのダンケルク」であるスミルナ港における悲劇すなわちギリシャ史にいう「小アジア惨案」と、それに引き続く事態、特にトルコのギリシャ人とギリシャのトルコ人との百万人単位の交換と切り離して論じることはできない。
しかし「サカリアの会戦」「スミルナの悲劇」といって、どれだけの人に通じるであろうか。さらに、その背景となると、大政治家ヴェニゼロスと、その農地改革を初めとする近代化とか、それを支えた知的に高いトルコ引揚者たちとか、あるいは、この敗北によってビザンツ帝国を復興しようとする「大構想」(メガラ・イデア)が一掃されたことが災いを転じて福となす要素であったということを書き出しても、書けば書くほどむなしい気がする。
医学でも、重要ではあるが専攻者が一つの大学当たり十年に何人出るかという部門がある。そういうところの教授は、出席してくれる少数の学生に向かって、ひょっとして興味を持ってくれる者が今年はいるのではないか、いやそれは期待できない、名前の一つ、概念の一つでも覚えてくれればよしと思い返すのだと私に語ったことがある。ギリシャに関心のある人の九割九分は古代ギリシャ、それもヘレニズムではなく、たいていはペリクレスのアテネ、稀にそれ以前に眼が向いている。現代ギリシャに眼を開いた人でも「現代ギリシャ史はちょっと・・・・」という方が大部分である。ほんとうは、実に面白いのだがーー。
私はついに、ギリシャ・トルコ関係はもちろん、第二次大戦における一九四〇年のイタリアの一方的侵略による「アルバニア戦役」とか、二次にわたるバルカン戦争(1911-13)、一八八三年のアレクサンドリア砲撃とか、一八二九年のナワリノ海戦とか、ギリシャの独立と英国との関係とか、世界最初の非西欧近代国家であるモハメッド・アリのエジプト(一八〇九年以後)とフランスの関係とかを書いた長い文章を削除してオクラに入れてしまった。
これらの事件と、ペリー艦隊来航から明治維新を経て日露戦争にいたる経緯とを対比させると、そこにあぶり出されてくる類似性は実に面白い。むろん、カヴァフィス(1863-1933)、エリティス(1911-1966)、セフェリス(1900-1971)、リッツォス(1909-1990)の理解には欠かせない。それは、ペリー以後の歴史を抜きにして漱石や鴎外、荷風を語れないのと同じである。しかし、私の中に、それに深入りするのはよせ、第一、おまえのつたない訳詩集の中にすでにかなり注記してあるではないか、とささやくものがあった。(中井久夫「現代ギリシャ詩人の肖像」初出「ふらんす」一九九三年四月号~一九九四年二月号)
……私は、ほとんど「糸をくり出すカイコ」のごときものとなった。その中で私は一九八〇年代『週刊朝日』の「デキゴトロジスト」たちの運命に陥っていた。すなわち、話をにぎわせるために自分を売り、家族を売り、そして友人を売りかけたのである。治っていない患者を売っていないのがせめてものことであったか。(……)
私は一九八三年の出版後、いちども『治療と文化』をひらくことはなかった。そのままに六年が過ぎた。大岡昇平先生には担当の編集者を通じて、「小説が百かけますね」とのおことばをいただいた。これは、私が「デキゴトロジー」ふうに売りとばしたものの他に、隠し味となっている、その十倍百倍をお読み取りになってのことであろう。私は恐縮し恐れ入った。(……)
もし「私」小説にならって、「私〔わたくし〕精神医学」があるとしたら、この本の半ば、あるいは一側面をそれと名ざされても、私は異議を唱えない。……(中井久夫『治療文化論』「あとがき」1990.5)
上に掲げた文に驚くほどのギリシャ歴史関連調査のちに、その《長い文章を削除してオクラに入れてしまった》とあるが、それが中井久夫の文章の「隠し味」になっていることは明らかだ。わたくしはそれに感嘆する。
a portrait head of an unknown Roman from around 80 B.C. |
世界史にはほどんど無知なわたくしがこんなことを調べてみようとしたのは、「シリア」にかかわる。すなわち少し前ふとしたはずみで次のように書いてしまったことにかかわる、《2015年はヨーロッパにおいて二人の父親殺しの記念すべき年である。前半にはギリシヤというヨーロッパ文明の「父」を半殺しにしたように、後半は「名付け親」のシリアを「連帯」して空爆して平然としている》(「日の沈む地方の蛮族たちの末期の熱病」)。
大王の死後、大帝国は大王の配下にいた部将が"ディアドコイ(=後継者)"を自称し、領土を奪い合った。戦争では小アジア西部のイプソスの戦い(B.C.301)などが有名である。結局B.C.3世紀前半には、プトレマイオス朝エジプト(B.C.304~B.C.30。首都アレクサンドリア)・セレウコス朝シリア(B.C.312~B.C.63。首都前半セレウキア~後半アンティオキア)・アンティゴノス朝マケドニア(B.C.306~B.C.168。首都ペラ)の3国が並び立った。しかしセレウコス朝から小アジアにギリシア系のアッタロス朝ペルガモン王国(B.C.241~B.C.133)、中央アジアに同じくギリシア系のバクトリア王国(B.C.255頃~B.C.130頃)、イラン東北部にはイラン系のアルサケス朝パルティア王国(B.C.248頃~A.D.226)らが次々と独立してシリアの権威は縮小していった。プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア、アッタロス朝ペルガモン王国はその後ローマに占領・併合され、バクトリア王国もスキタイ系民族に滅ぼされ、最後に残ったアルサケス朝パルティア王国も、復活したペルシア(ササン朝ペルシア。A.D.226~651)に滅ぼされていった。こうしてヘレニズム諸国は時代の幕を下ろしていった。
東征開始からプトレマイオス朝エジプトが滅ぶ約300年間をヘレニズム時代と呼ぶ。"ヘレニズム"とはドイツの歴史家ドロイゼン(1808~84)の造語で、"ギリシア風文化"の意。またギリシア人がポリス時代に使用した言葉「ヘレネス(=ギリシア人の自称)」にも由来している。(ヘレニズム時代(B.C.334~B.C.30))
アレクサンドロス大王がアケメネス帝国 (訳注:ペルシャ王国を紀元前330年に) を滅ぼした後に、 プトレマイオス王朝が、 エジプトを土台にして周辺の小国を統一して大国を築き、一方では、セレウコス王朝(訳注:現シリア)が、アジアにある幾つかの地方帝国を統一して大国を築いた。この二つの大国のどちらにより関心があり、より重要な国であるのかを、 釣り合いのある歴史的見方でもって研究した歴史家はいない。セレウコス王朝は、ギリシャ文明とシリア文明とがあたかも結婚したようなものであり、その愛の棲家と考えてよく、両者の結合でもって巨大な子供が産まれたことになる。 その子供とは、まず初めに都市国家間に連合・共同といった原理としての神性を持つ王権であり、 それは後にローマ帝国の 原型となった。そしてミトラ教、キリスト教、マニ教、イスラム教など一連の異なる宗教もこの地域で発生した。 約 2 世紀に亘って続いたセレウコス王朝は、当時の世界において最も創造的な人間活動をした地域であり、その比較的短い存続期間中に勃発した動乱で王朝が滅んだ後も長く人類の運命を形作ったのである。 これと比べてみると、 プトレマイオス帝国におけるギリシャ文明がエジプト文明との結婚は、実り少ないものだった。イシス崇拝とある種の経済的な、 そして社会的な組織をローマ帝国に導入したことによって実際には評価されうるに過ぎなかった。(トインビー『歴史の研究』)