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2015年12月8日火曜日

「イラク難民」と「シリア難民」の混淆による国境の消滅




歴史家山内昌之は、今年一月の「イスラム国とクルド独立」という記事にてイラクとシリアの国境の消滅をめぐって次ぎのように言っている。

ISは、2014年8月にイラクのクルド地域政府(KRG)への本格的な攻撃を始めたが、それはトルコ、イラン、シリア、イラクに分散しているクルド人に国民形成と国家建設を促す大きなきっかけとなった。しかも、KRGを北イラク地方の自治政権から、米欧にとって国際政治に死活的な存在に転換せしめる触媒にもなったのだ。

 KRGとISは、イラクとシリアにまたがる地域を迅速に占領することで、国際的に承認された既存の国境線をぼやけさせ、イラクとシリアの分裂が残した政治的真空を満たそうとしている。双方ともに、自治の強化や独立国家の既成事実化を図るために、1千キロにわたり直接に「国境」を接する互いの存在を強く意識するようになった。かれらは、相手を映し出す鏡におのれの姿を見ているのだ。

 ISは、6月に指導者バグダディをカリフ(預言者ムハンマドの代理人)とするイスラム国家の建設を宣言した。こうしてシリアとイラクとの国境が無視されると、領土的に新たな「無人地帯」が現れた。それは、クルド人とISが影響力を競い合う地域と言い換えてもよい。

 国境線の希薄化はクルドにも利点がある。12年夏にシリアのクルド人地域(ロジャヴァ)は事実上の自治を獲得し、KRGとの協力と新たな共通国境を模索した。ISによるKRGとロジャヴァへの攻撃は、対立していたシリアとイラクのクルド人に共通の敵と対決する必要性を痛感させるに至った。

 この機運は、4国にまたがるクルディスタンの全体に広がった。イラン・クルディスタン民主党の部隊は、KRG国防省の指揮下にあるアルビルの南西地域に派遣され、トルコのクルディスタン労働者党とそのロジャヴァの直系組織たる人民保護軍は女性も含めてシリアとイラクでISと戦っている。

 いちばん劇的な変化は、長くイラクの一体性を主張してきた米国で起きた。オバマ大統領はISに対抗するクルド支援の必要性に寄せて、イラクと別にクルドの名を明示的に挙げるようになった。米国をはじめとする有志連合による空爆は、不活発なイラク国防軍のためでなく、戦場のクルド部隊のためなのである。有志連合はKRGに依拠する以外に対IS地上戦略の足がかりがないのが現状なのだ。

 クルド民族は、かれらの歴史と伝統において異次元の世界に入ったといえよう。その独立国家宣言は時間の問題のように思える。




※イスラム国の「領土」については、「メモ:「イスラム国」と「クルド国」」を見よ。


ジジェクも孫引きだが次ぎのように国境の消滅について語っているようだ。

(ジジェクによれば)IS の出現は、かつて植民地の支配者がシリアとイラクに分けてしまったスンニ派が、ようや く一つになったとも解釈できるという。(川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」

とはいえ、ジジェクはどこでこのように具体的に言っているのだろうか、ーー川口さんが依拠しているのはドイツ語での記事であるようで、わたくしには縁がないーー英文記事で少し探してみた。

すると、「ISIS Is a Disgrace to True Fundamentalism - The New York Times」(SEPTEMBER 3, 2014)に次ぎのような叙述がある。

最近の数ヶ月で次のように認めるは、もはやありきたりになった。イラクとシリアにおける「イスラム国」、あるいはISISの台頭は、反植民地的覚醒の長い物語における最後の章であるとーーすなわち、第一次世界大戦後に列強諸国によって引かれた気まぐれ・専横的な国境の引き直しーー、かつまた同時に、世界資本が国民国家の権力を掘り崩すやり方に対する闘争の最後の章だと。

しかし上述の恐怖と狼狽を引き起こすものは、「イスラム国」の別の特徴だ。「イスラム国」当局の公式声明がはっきりさせていることは、国家権力の主要な仕事は国民の福利(健康、飢餓との闘い)ではないということだ。本当に問題となっていることは、宗教的生活とすべての公的生活が宗教的法に従う関心事にかかわる。

ここには次のギャップがある。「イスラム国」によって実践される権力と近代西洋の概念ーー、ミシェル・フーコーが呼ぶところの「生権力」とを分け隔てるギャップである。後者は公衆の福利を統制するものである。「イスラム国」のカリフ制は生権力を全的に拒絶する。公式の「イスラム国」のイデオロギーは西洋の自由放任主義に激しく衝突するが、「イスラム国」のギャングたちの日々の実践は、全面的なグロテスク・オルギー(暴力的狂宴)を包含している。

これは「イスラム国」を前近代的なものとするだろうか? いや、「イスラム国」に近代化への過激な抵抗の事例を見る代わりに、人はむしろ倒錯した近代化の事例として捉えるべきだ。そして一連の保守的な近代化として位置づけるべきだ。すなわち、19世紀の日本の明治維新に始まった保守的な近代化のようなものとして(「維新restoration」あるいは十全な天皇制への回帰のイデオロギー的形式として装われた急速な産業近代化である)。

ーーこの文の明治維新とイスラム国誕生を似たようなものとする見解は、ここでの話題とはずれるが、われわれにとっていっけん意表をつくもので、逆にジジェクの日本史の知識の欠如をすぐさま指摘する人もいるかもしれない。だが天皇制=カリフ制(あるいは明治維新=テロ)とはけっして荒唐無稽なものではない。

明治維新の実態は、長州の狂信的なテロリストが尊王攘夷というカルト思想にもとづいて徳川幕府を倒した内戦だった。「明治維新」という言葉も同時代にはなく、「昭和維新」のテロリストたちが使い始めたものだ。(なぜ長州のテロは成功したのか『明治維新という過ち』

「歴史は勝者によってつくられる」という誰でもが知っている箴言がある。テロが成功すれば、テロリストは英雄となる。その例は歴史上枚挙に暇がない。


さて話を戻して、山内氏とジジェクの見解に従えば、もはやイラクとシリアの国境は元には戻らないのではないか、とさえ考えることができる。かりにイスラム国が殲滅されても、たとえばクルド人たちはそれぞれの元の居住地に戻るだろか。そもそも彼らはもともと遊牧民である。

山内昌之氏の文をくり返しておこう、《クルド民族は、かれらの歴史と伝統において異次元の世界に入ったといえよう。その独立国家宣言は時間の問題のように思える》と。


SLAVOJ ZIZEK: KURDS ARE THE MOST PROGRESSIVE, DEMOCRATIC NATION IN THE MIDDLE EAST(22nd October 2015)より

歴史を見てみよう。クルド人は植民地分割の最大の犠牲者だ。西洋人の中東への接近法は、どの民族がどの民族と戦っているかを基にしている。言い換えれば、西側がそれを決定するのだ。それは中東における西洋の介入の伝統だ。最も大きなカタストロフィは第一次世界大戦後のものだ。シリアはエジプトの手に、他の国は他の国に手に。このせいで、すべての国境は偽物 artificial だ。現在のイラクを見なさい。東部イラクはシーア派でイランの影響下、西部イラクはスンニ派だ。人びとの視点からは、連合 federation は合理的だったのだが。アフガニスタンとパキスタンを見なさい。どこもかしこも同じだ。(……)

クルド人は中東において鍵となる役割をもっている。クルドの問いが解決されれば、中東のすべての問題もまた解決される。バルカンには非合理的状況がある。アルバニアとコソボは、二つに分離した国家だが同じ人びとだ。西側は統合することを許さない。というのは彼らはより大きなアルバニアをおそれるからだ。逆に、中東における「クルド国 A Kurdish state」は誰にも脅威にならない。実際上、それは人びとのあいだの架け橋になるだろう。

ここでいささか話を変えて、イラク難民についてみてみよう。


(Refugee conference opens ,2007)

この図によれば、ある時期、シリアに120万人ものイラク難民がいたことになる。

(他にもざっと探してみたが、思いの外、イラク難民の情報はすくない)。

現在はどうなのか、ここでも山内昌之の記事から拾ってみよう(【ヨルダン危機の背景にシリアとイラクの難民】~イスラム国が引き起こした悲劇~)。

イラクには20万以上のシリア難民がいる苦境に加えて、2014年には200万以上の イラク人が国内難民として登録されている。11年にはシリアに11万2000人のイラク難民がいた。いまや、二つの国は難民を互いに出すことになり、国家としての枠組みが壊れただけでなく、国境の線引きも消えてしまった。この状況を生み出したのは原因と結果は、I Sの「革命戦争」と人員の粛清やそれに伴う土地の荒廃によるものだ。 たいていのシリア難民とイラク国内難民のおよそ半分は、イラクのクルド地域におり、その 地の急激な人口増をもたらしている。この難民の64%が女性と子供であり、22%が教育 や雇用の機会を必死に求めていた若い女性なのだ。

クルド地域にはシリア難民のうち97%の人びとが住んでいる。それはシーア派中心のイラク中央政府がスンナ派の多いシリア難民の受け入れを事実上拒否しているからだ。 もっともこの地域へのシリア難民のうち90%はシリア・クルド人と言われている。かれらの大多数は、収入を得られる道を断たれており、家賃の20%上昇、オフィス賃貸料の10-1 5%値上げなどに苦しんでいる。 しかし、イラクのクルド地域へのシリア・クルド人の集住が組織化され安定を見るようであれば、北イラクを中心にしたクルド国家の独立も既成事実となり、法的独立の宣言も日程に上る。 いずれにせよ、シリアとイラクの国家存在の希薄化は、その双方にまたがる自称カリフ国 家ISと、事実上の独立を法的な独立に格上げしようとするクルド国家との正面対決をますます促進することだろう。 そして、その狭間で苦しむ難民の問題こそ、現在の中東危機の本質につながる争点なの だ。イラク人難民40万に加え60万から70万にもなるシリア人難民が人口630万のヨルダ ンに流入すれば、国家の財政だけでなく社会の安定と治安にも大きな負担となる。そこが ISの狙いでもあるのだ。

《2011年にはシリアに11万2000人のイラク難民がいた》とあるが、この事実関係は今調べきれていない。

帰還者の実態は、円城由美子さんの「フセイン政権崩壊後のイラクと国外避難民」(2012,PDF)によれば次の通り。スンニ派やクルド人などは帰還できていない。とすれば、スンニ派のイラク・シリア横断国家ーーそれは「イスラム国」に限らないーーやクルド国家の独立機運は、容易にやむことがないだろう。

イラク攻撃後、 イラク国内の治安の悪化により多くのイラク人が居住地を離れ国内外の別の場所へと移動せざるを得ない――つまり displaced の――状況に陥った。その数は、推定300 万人とも言われ、うち半数近くを国外避難民が占めている。しかし、イラク攻撃前にもイラクからの出国者は多数存在した。

(……)以上、 論じてきたことに補足を加え、 出国時期別にそれぞれの社会集団としての特徴に着目して整理すると、次のようにまとめることができる。

①フセイン政権下での弾圧や迫害、強制移住政策による出国者は、主にシーア派で、南部出身者が多数含まれ、イランに滞在している。

②2003 年のフセイン政権崩壊前後からアスカリーヤ ・ モスク爆破までの出国者は、主に前政権関係者およびキリスト教などマイノリティーが中心。 前政権関係者はヨルダンに滞在している場合が多い。

2006年のアスカリーヤ ・ モスク爆破以降の出国者は、 シーア、スンニの両宗派にまたがって約 2 年間の間に出国し、 多くがシリアに滞在している――ということである。

(……)イランからの帰国者の多くは、上述①にあたる 2003 年より前にフセイン政権下での弾圧や迫害を理由に出国していた人であり、大半がシーア派である。帰還はフセイン政権崩壊直後の約1年間に最も多くみられたが、その後は急激には拡大せず、現在まで細々と続いている。

一方、 シリアからの帰還者は、 ③の 2006 年以降に宗派対立およびその他諸々の治安の悪化を原因として出国した避難者であり、 宗派や民族を横断するように避難者は存在していた。しかし、そのうち帰還しているのは主にシーア派で、スンニ派を含む、他の宗派・民族的マイノリティーはほとんど帰還していない[UNHCR 2012: 4]。

①③ともに帰還先は、バグダッド以外は、ほとんどの場合、シーア派が主流宗派である南部への帰還である[UNHCR 2012: 4]。つまり、国外からの帰還者は、大半はシーア派であり、スンニ派や他のマイノリティーでは帰還が進んでいないことが推察される。

このように、複数の支援機関が治安改善を認め、2009 年以降は帰還支援に重心を移しているのがわかる。では、避難民は減ったのか。あくまでも各機関への登録者数に基づいた推定の数字ではあるが、各機関の見解は概ね以下の内容で一致している。すなわち、2012 年現在も、 国外避難民は 130万人規模で存在し、 多くが5年以上避難生活を送る、 いわゆる長期的避難民の様相を呈している、ということである。

避難民にはマイノリティーの占める割合が突出して高く、その背景には、元の居住地でのマイノリティーに対するヘイトクライム的な攻撃の実態がある。 マイノリティーに対する襲撃は、フセイン政権崩壊後から 10 年後も依然として続いており、帰還の進まない理由として存在している。


…………

最後に次の文で始まるシリアの2011年~2015年の内戦の推移をまとめた記事をいくらか邦訳して抜き出しておく。

シリアにおいて、政府に対する単なる抗議として始まったことが、市民戦争に拡大し今では国際的な危機になった。2011年の紛争に始まって以来、いくつかの外部の国家は、現場での内紛を支援したり反抗したりして、代理戦争の火に油を注いでいる、すなわち、大統領バッシャール・アル=アサド体制支持者、自由シリア軍、クルド派、アルカイダ、イスラム国のあいだの権力争いがいっそう苛烈になっている。

以下、上の文と同様に、How the growing web of conflict in Syria became a global problem(2015/11/03,washingtonpost)の2015年の説明箇所だが、いくらか意訳をしているので、原文をかならず参照のこと。

【2015年 ロシアの軍事介入とフランスの報復】

「自由シリア軍 FSA」は、アサド体制に対して目を瞠る成果を得る。9月、長期のシリア体制同盟国であるロシアは、反アサド集団を押し返すために空爆作戦を開始する。11月、フランスは、シリアの都市であるラッカ Raqqa を空爆する。ラッカ、すなわち「イスラム国」の事実上の首都であり、パリにおけるテロ攻撃に対する報復としての空爆である。






【破砕したシリア】

2015年秋の時点で、アサド体制は、主に西部シリアーー海岸地帯とダマスカスを含むーーに実権がある。反逆者たちとアルカイダ同盟の「アル=ヌスラ戦線」は、北部と南部を拠り所にしている。クルド勢力は、さらにいっそうの北の領域ーートルコとの国境沿いーーに根を張っている。「イスラム国」は、イラクからシリアへの流入を可能にするユーフラテス川に沿って実権がある。






紛争が継続するに従って、彼らの家から追い出されるシリア人の数は増え続ける。2015年10月時点での国連推計では、400万人以上の公認されたシリア難民がいる。その殆どはレバノン、トルコ、ヨルダンに向かう。




これは、2014年12月の時点で自国内で追い出された推計760万人のシリア人に付け加わる人数だ。彼らは家から追い払われたが、国内に留まっている。2015年8月の時点で、紛争以来、推計25万人のシリア人が死亡している。この人数は、国から逃げ出したり殺されたり追い出された1200万人以上の人々に付加される。それは、2011年に2240万人だったシリアの人口の半数以上である。