このブログを検索

2015年12月9日水曜日

〈あなた〉のなかのアサド

……ひそかに「自分をお人よし」「いざという時にひるんで強く自己主張ができない」「誰それさんに対して勝てないところがある」ということを内々思っている人(……)。こういう劣等感意識を持っていて、しかも何とか「自分を張りたい」という人が「意地」になりやすい((中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)




さてまたシリアがらみの話題だがあまり信用するなよな、
公開された備忘録ってとこだから。
杞憂だとは思うけど念のため書いておくよ

そもそもオレは、一年ほど前くらいまでは、
シーア派、スンニ派の違いさえ知らなかった人間でね
シャルリー・エブド事件のとき、ようやくいくらか調べてみただけさ
新聞や雑誌、テレヴィも見ない習慣でね
ネット情報は見ないわけではないがひどく偏りがあるはずだしな

皆さんにとってはひどく常識のことをことあたらしく記してんじゃないか
と怖れつつメモってんだからさ






というわけで、ハーフェズ・アル・アサド家族はアラウィー派でありーー アラウィー派が政権の座に着くことは、ユダヤ人がロシアの皇帝に、また不可触賤民がインドのマハラジャとなるに等しいとも形容された(Robert D. Kaplan)ーー、現大統領バシャール ・ アル ・ アサドとその美貌の妻アスマー・アル=アサド(砂漠の薔薇、中東のダイアナ妃)はスンニ派である、かつまたバシャールはロンドンで眼科医をしていた政治に関心のない控え目で穏やかなハーフェズの次男だったが、兄(長男)の自動車事故死によって、やむことなく政治の道に入った、ということを記そうと思ったのが、ーーだがこんなことをメモして何になるのか?

ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)




耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)

さてーー。
ここでまずは、捏造された疑問符のある文をーーいささか厚顔無恥にーー掲げよう。

バシャール ・ アル ・ アサドは兄、あるいは父に劣等感があったのではないか、そもそもアンタッチャブルに近い宗派とみなされたアラウィー派の者たちは、主流のスンニ派にどのような感情を持っていた(持っている)のか?




イスラムの原点への回帰を唱えたシリア生まれの思想家アフマド・イブン・タイミーヤ (1268~1328年)は,アラウィー派を激しく非難 し,教祖のヌサイリー族はユダヤ人やキリスト教徒よりも不敬虔で,さらに彼らは戦争をひたすら行うフランク人やトルコ人やその他の異教徒より もいっそう不敬虔であると断じた。 (シリア・アラウィー派の特色との支配の歴史的背景,現代イスラム研究センター 理事長 宮田律 PDF)

ーーアラウィー派については、「The Alawi Capture of Power in Syria Daniel Pipes(1989)」(PDF)に比較的詳しい。この論にはヌサイリーについて、次のような記述がある。

Whereas 'Nusayri' emphasizes the group's differences from Islam, 'Alawi' suggests an adherent of Ali (the son-in-law of the Prophet Muhammad) and accentuates the religion's similarities to Shi'i Islam. Consequently, opponents of the Asad regime habitually use the former term, supporters of the regime use the latter.




……一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 このようなことが問題になるのは、風邪のように、あまりこちらのこころが巻き込まれずにすむ病気が精神科には少ないからである。精神科治療者の先祖は、手軽な治療師ではな い。シャーマンなど、重い病気にいのちがけで立ち向かった古代の治療者である。 しかし私たちは、一部の民間治療者のように、自分だけの特別の治療的才能を誇る者で はない。 私たちを内面的にも外面的にも守ってくれるのは、無名性である。 本当の名医は名医と思っていないで、日々の糧のために働いていると思っているはずである。 しかし、ベテランでもライバル意識や権力欲が頭をもたげると、とんでもない道に迷い込む ことがある。これらは隠れていた劣等感のあらわれである。特別の治療の才を誇る者がも っともやっかみの強い人であるのは、民間治療者だけではない。 (『看護のための精神医学』 中井久夫)

ーーと「劣等感」という語彙を連発してみたが、それに関連づけてなにやらいうのは、一夜漬けの身としては、当面遠慮しておくことにする。

大切なのは、〈あなた〉のなかにもアサドがいる、ということを知ることだ。ふとしたきっかけでそれは現われるかもしれない。

ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木 亨『ドゥルーズ』はじめに

〈あなた〉はアサドからまぬがれていると思っているかもしれない。だがニューヨークのテロ事件後の米人、そして今回のパリテロ事件後の仏人の反応も一種の集団アサドである(参照:人を戦争に駆り立てる「なにか」)。

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

かつまた、《「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」》たちの集団ヒステリーということもできる。

魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。(『差別感情の哲学』中島義道)

…………

さてここでスンニ派/シーア派とはなんだったかを復習(?)しておこう。

ーー復・習とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを。

……カンブルメール夫人が、「再読すべきだわ、ショーペンハウアーが音楽について述べていることを」といっているのを耳にはさむと、彼女ははげしい口調でこう言いながらその文句に私たちの注意をうながした「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない、だまそうとしたってだめなの、私たちを」老アルボンはゲルマントの才気の形式の一つを認めてにっこりした。(プルースト「見出された時」)




◆「なぜスンナ派とシーア派は 争うのか」(塩尻和子 PDF)より

シーア派という名称は、 「アリーの党」という意味の「シーア・アリー」に由来する。彼らは「アリーが友とするものを友とし、敵とするものを敵 とする」を合言葉として結束し、アリーを初代の 「イマーム」 (最高指導者)に、次男のフサインは 第 3 代イマームとした。シーア派が成立してはじめて、それ以外の多数派が「スンナ派」 (ムハン マドの慣行と共同体の合意の人々)と呼ばれるようになったのである。  
教義においてシーア派とスンナ派がもっとも異なる点は、預言者ムハンマドの後継者を誰にするかという点である。スンナ派では、イスラーム共 同体の政治的および宗教的権威は信者の合意のも とに選ばれる最高指導者イマームに委ねられると され、預言者の後継者を意味するカリフをイマー ムとして認めてきた。一方、シーア派は、預言者 の血縁者を、正確にはアリーとその妻である預言 者の末娘の子孫を「聖家族」として認め、その中 でもイマーム位についた者のみが預言者の絶対的で無謬の権威を受け継いでいると主張してきた。
イスラーム集団の指導者としてのイマームの存在は両派に共通した教義である。しかしシーア派 では、イマームはムハンマドの血縁である「聖家族」によって継承され、それぞれの時代に一人し か現れない、神聖で絶対的な無謬の救世主であり、 かつ宗教的にも政治的にも最高指導者である。  

シーア派には多くの分派があるが、それは聖家族の子孫のうち、 誰をイマームと認めるか、 という 違いによって生じている。最大分派の十二イマー ム派では 12 代までのイマームの存在が認められ ている。最後のイマームは西暦 874 年に小幽隠に 入り、940 年には大幽隠に入ったとされ、現在も隠れて生きていると信じられている。この最後の イマームを「隠れイマーム」として崇敬する十二イマーム派では、 イマームは終末の日に救世主(マ フディー)としてこの世に再臨し、地上に神の正義を実現すると信じられている。 
スンナ派では、アッバース朝の滅亡後も、さまざまな形で共同体の指導者であるカリフの存在が認められており、 オスマン帝国ではスルターン(皇帝)がカリフを兼任する「スルタン・カリフ制度」 が実施されていた。現代にいたるも、イスラーム社会の理想形としてカリフ制の再興を求める意見 があとを絶たないことも事実である。
 
カリフの権威を認めないシーア派では、イマー ム不在の期間はイスラーム法の専門家である「ウラマー」が信者を指導するために、ウラマーの位階が設定されており、最高位がアーヤトッラー・ ウズマー (神の最高の徴) と呼ばれる。イラン・イ スラーム革命後にはこれがさらに整備され、7 位 階が設けられた。そのためにシーア派ではイスラー ム復興運動の担い手がほとんどの場合、ウラマーで あることは興味深い。イラン・イスラーム革命を成功に導いたホメイニも最高位のウラマーであったことは、よく知られている。





忘れてならないことは、スンナ派もシーア派も、 教義上にはさまざまな相違があるものの、両派ともたがいに正統的であると認め合っていることである。シーア派は少数派であるが、 最大分派の十二イマーム派はイラ ン・イスラーム共和国の国教であり、 また、アラウィー派はシリア人口の 12%を占めるにすぎないが、大統領一族がこの派に所属しているために、両派とも政治的に大きな注目を集めている。  

それでは、なぜ、互いに正統であ ると認め合っている宗派同士が、凄 惨な対立を続けているのか? 確実なことは、抗争の要因が「宗教的な宗派対立」ではない、ということである。シリアの混乱は、スンナ派を中心とする反 政府グループとアラウィー派政権との対立である と見られているが、双方ともにスンナ派もシーア派もキリスト教徒までもが入り乱れていて、一枚岩ではない。  

イラクでは、南部のシーア派政権と、中部地域 を支配しているスンナ派強硬派の「イスラーム国」 との間の覇権争いが激化しているが、正確に言え ば、 これも 「宗派紛争」 ではない。これらの紛争は、 意図的に仕組まれた貧富の格差と政治混乱のも とで、宗派に名を借りた熾烈な経済的利権闘争 となっている。この闘争にスンナ派とシーア派 の対立という、古典的なシナリオを纏わせるこ とは、宗教的な大義名分によって本質的な要因 を覆い隠す、姑息な手段に過ぎない。イスラエ ルとパレスチナの対立を「ユダヤ教とイスラー ム」の宗教的対立に陥れて、効果的な解決の道 を遠ざける超大国の策略と同じことが、ここでも行われている。

…………




◆上にも一部引用したが、 「シリア・アラウィー派の特色との支配の歴史的背景,現代イスラム研究センター 理事長 宮田律 PDF」からも抜き出しておこう。

アラウィー派がかつてシリアから独立しようとした集団ーーひょっとして今のクルドのような、だが小集団ーー、あるいはフランス植民地主義が育てた仏シンパの集団であるという点が興味深い。

世界のアラウィー派の全人口は現在130万人と見られ, そのうちの100万人前後がシリアに住んでいると見積もら れる。これはシリア全人口の12%を構成する数である。また,シリアのアラウィー派の4分の3が シリア北西のラタキア州に住んでいる。ラタキアではアラウィー派が全人口の実に3分の2を構成する。

アラウィー派は,イスラムのスンニ派やシーア派からは蔑まれた存在であり続けた。(……) 

アラウィー派は,オスマン帝国内の自治制度であるミッレト制度にとり込まれることもなかった。オスマン帝国が1571年に発した布告ではアラウィー派はムスリムが支払う以外の税を支払う義務があるとされた。というのも,アラウィー派は ラマダンの断食も行わず,礼拝も行わず,イスラ ムの教義に従わない異教徒と判断されたからであ る。オスマン帝国下でスンニ派は,アラウィー派 が生産する食料も不衛生と見なし,口にすること はなかった。
第一次世界大戦後のフランスによるシリアの委任統治はアラウィー派の地位を次第に上昇させることになる。アラウィー派は,1920年にフランス がダマスカスを占領すると,親フランスの姿勢を即座に見せるようになる。このアラウィー派の姿 勢は,従来の差別から抜け出そうとする意識とと もに,伝統的なタキーヤの意識の表出だったとも いえる。  

アラウィー派は, 「アラブの反乱」を指導したファイサル・イブン・フサインがシリアを支配することに反対した。というのも,スンニ派アラブによる統治は彼らの虐げられた状態が続くと考えたからである。アラウィー派は,フランスの保護の下に自らの国家を建設することも意図するようになったが,他方フランスはアラウィー派の支持をとりつけるために,彼らに自治を付与した。フラ ンス統治は,他のどのコミュニティーよりも特に アラウィー派に利益をもたらすものだった。1922 年7月にラタキア自治国が成立し,アラウィー派 の判事も誕生するようになった。こうしたアラウィー派の権利拡大にスンニ派は快く思わず,シリ アに自治国制度が設けられたのは,アラウィー派 の策動だともスンニ派の一部では考えられた。
アラウィー派は,フランス統治に協力し続け, 1926年1月の総選挙では多くのシリア人がフランスに反発してボイコットする中でアラウィー派は その人口に見合わないほどの議席を獲得した。ま た,フランスが創設した「レヴァント特別部隊」 の8個大隊の半分はアラウィー派の人間が占めるようになっていた。アラウィー派は,スンニ派の デモを解散させ,ストライキを解き,また反乱を鎮定した。アラウィー派は,フランス統治が終了すれば, スンニ派アラブの支配が復活すると考え, フランスに積極的に協力した。
シリアからの分離が困難になり,シリア国家にとどまることを決定すると,アラウィー派は軍隊 とバアス党の中で権力を獲得しようと躍起となっていった。軍隊におけるアラウィー派の人員は独 立後も減少することはなかった。フランス統治時代からのアラウィー派の将兵は残り,また新たに入隊して来る者たちもいた。  

軍隊は,アラウィー派に社会的上昇と経済機会を与える場であったし,両大戦期,民族感情を強 くもっていたスンニ派アラブ人たちはフランスに 協力することを嫌がり,その軍に入ることを拒絶 したり,躊躇したりした。アラウィー派など少数派は貧しいために,子弟の教育のために授業料が 無料の陸軍士官学校に好んで入校していった。ま た,家族の生活を支えるためにも軍隊に入って俸給を得ることが必要だった。  

1946年後もアラウィー派の人物がシリア軍の将 校に占める割合は多かった。1949年には重要な軍 の部隊すべてにアラウィー派の将校たちが配置さ れるようになっていた。アラウィー派の兵士たち が多数を占め,また下士官のうち実に3分の2をアラウィー派が占めるほど,アラウィー派の軍隊における存在は絶対的なものになっていく。




さて、最後にひょっとしてアサドに「同情」してしまうかもしれない善良な〈あなたたち〉のために、こう引用しておくことにする。

……われわれが避けねばならぬのは,「理解するよう努める」ということの罠である.つまり,ボスニア紛争が神秘化される主要な理由は,誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある.そういった態度の紋切り型の一つに従えば,「何が起きているかを説明しようとすれば,少なくとも過去 500年の歴史,様々な戦争と宗教的,民族的等々の争いのあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが,情勢の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば,バルカンに注がれる疑似人類学的眼差し,つまりはファンタスムの場としてのバルカンに対して西欧の観察者が保っている距離を維持することに貢献するのである.言い換えるなら,旧ユーゴスラヴィアでの出来事が証明しているのは,「理解することは許すことだ」というお定まりの知恵がもつ愚劣さなのだ.為さねばならぬのは,まさにその逆のことである.ポスト =ユーゴスラヴィア戦争に関しては,いわば逆転した現象学的還元を行ない,われわれに状況を「理解する」ことを許す夥しい過去の亡霊,意味の多様性を括弧に入れなければならない.「理解する」ことの誘惑にあらがい, TVの音を切ることと同じようなことを行なわなければならない.するとどうだ,声の支えを失ったブラウン管上の人物の動きは,意味のない馬鹿げた仕草に見えるではないか …….「理解力」のこのような一時的宙吊りを行なうことで初めて,ポスト =ユーゴスラヴィア危機において政治的,経済的,イデオロギー的に問題となっているもの,すなわち,この戦争を導いた政治的計算と戦略的諸決定の分析が可能になるのである.(ジジェク『アンダーグラウンド 』

…………

※追記

◆シリア内戦非武装市民犠牲者数(シリア人権監視団による11月末までの統計)