・「歴史は徹底的であるから、何度でも〝追試〟させられる。しかも無反省な輩はその都度なんどでも同じ過ちをくりかえす」。友人Sさんの手紙のなかの1行。ニッポンの「国際反テロ戦争」参戦が近い、とかれはみている。わたしもそうおもう。参戦前夜をひしひしと予感する。「国際反テロ戦争」は、〝テロ〟現象の可変的深層をだれもつかみえないまま、拡大し、変容し、いたずらに泥沼化するだろう。〝テロ〟の様態はみるもののつごうで、つごうよく変えられ、表現される。そのとき、ひとびとの精神と立ち居ふるまいはどうなるだろうか。愛国化、民族主義化、祖国防衛戦線化しないものか。パルタイは「国際反テロ戦争」参戦にはっきりと反対できるだろうか。そこだ。〝追試〟とはそれなのだ。第二次世界大戦はファシズム対反ファシズムではなく、反ファシズム戦争の装いをした帝国主義戦争であった。〝追試〟のポイントはそこにある。パルタイは〝追試〟で合格するか。またも落第の公算が大ではないのか。「赤旗」のインタビュー・ドタキャン事件について、まだなんの連絡もきていない。パルタイ中央にはきっと「事件」の感覚もあるまい。みずからの歴史をいくども塗りかえてきたものたちに、歴史修正主義を難ずることはできないはずだ。歴史はあまりにも徹底的にめぐってくるので、わたしたちは何度でも〝追試〟をうけさせられる。コビトと犬と東口のカフェ。エベレストにのぼらなかった。(辺見庸 私事片々 2015/12/03)
さて、日本にはその事業(戦争)に人々を駆り立てるなにかがあるだろうか?
いやなければ、作り出せばよい、とマキャベリはいうだろう。
誰でも すぐさま思いつくだろう「なにか」は、日本での--たとえばイスラム過激派たちによるーーテロ行為だ(あるいはそれに見せかけた自作自演のテロだ)。それがあれば人々はすぐさま「駆り立てられる」だろう。
すなわち安全保障感の喪失を生み出せばよい。
実際、人間が端的に求めるものは、「平和」よりも「安全保障感」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。
「安全保障感」希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。自国が生存するための「生存圏」「生命線」を国境外に設定するのは帝国主義国の常套手段であった。明治中期の日本もすでにこれを設定していた。そしてこの生命線なるものを脅かすものに対する非難、それに対抗する軍備の増強となる。1939年のポーランドがナチス・ドイツの脅威になっていたなど信じる者があるとも思えない。しかし、市民は「お前は単純だ」といわれて沈黙してしまう。ドイツの「権益」をおかそうとするポーランドの報復感情が強調される。(中井久夫「戦争と平和 ある観察」初出 2005 『樹をみつめて』所収)
以下の文は、ここでの文脈ではいくらかの書き換えが必要かもしれないが、敢えてそうしないでおく。たとえば「猖獗する反ユダヤ主義」を「猖獗する反イスラム国」と代入するなどして読もう。
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。
結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
やや難解な文であるかもしれない。いくらかの捕捉としては、「レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK)」を見よ。
ここではフロイトに戻って次ぎのように引用してみよう。
特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)
こういった現象は島国根性の国、共感の共同体ではいっそう起こりやすい。
・この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。
・そのような『事を荒立てる』ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、実は抗争と対立の場であるという『本当のこと』を、図らずも示してしまうからである。
・「将来の安全と希望を確保するために過去の失敗を振り返」って、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」のである。しかし、この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう。(酒井直樹「無責任の体系」)
共感の共同体では集団神経症にきわめてなりやすいといってよい。仏国や米国でも大きなテロ事件があったなら集団ヒステリーになってしまうのだから、日本ではなおさらである(参照:「〈ソリダリテ〉(連帯)」の悲しい運命)。
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)
正義の味方としてふるまう元しばき隊の連中でも、その「おみこしの熱狂」ぶりは、最近ツイッター上で目にあまる(参照:構造的な類似(ネトウヨ/カウンター))。
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)
ーーいったい誰が止めうるというのか、おみこしの熱狂を。
《そのとき、ひとびとの精神と立ち居ふるまいはどうなるだろうか。愛国化、民族主義化、祖国防衛戦線化しないものか》と辺見庸は記しているが、実のところ彼はほとんど諦めているに違いない。
日本には「ユダヤ人」--すなわち、《固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟》をもった人物ーーもすくない。
ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)
数少ない「ユダヤ人」である古井由吉の文をここで挿入しておこう。
私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。しかしその悪癖がいまでは、群れを破壊へ導きかねない。たったひとりの気紛れが全体の、永遠にも似た忍耐をいきなり破る。(古井由吉『哀原』女人)
とはいえ、日本で、少数の弱々しい知性の声が果たして機能するとでも言うのか?
知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)
ところで、「フランス極右政党が記録的得票、パリ同時テロ以降初の選挙」という〈予想通り〉の結果が生れたようだ(参照:「日の沈む地方の蛮族たちの末期の熱病」の末尾)。
田舎にいけばいくほど、ル・ペン党(国民戦線 Front National; FN)の勝ちだということがわかる。