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2016年1月19日火曜日

自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である

阿片となると、ド・クィンシーの『阿片常用者の告白』がまず挙げられよう。遡れば、むろんポーであり、ホフマンである。『アラビアン・ナイト』が西欧にウケたのも、この物語の底にハッシシュ(マリワナ)酩酊があるからかもしれない。 (中井久夫「多重人格をめぐって」初出1993,3月号「本」『家族の深淵』所収)

ド・クインシー(Thomas De Quincey 1785年8月15日 – 1859年12月8日)

ーー『阿片常用者の告白』は1822年出版

ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 - 1849年10月7日)
ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776年1月24日 - 1822年6月25日)

ーーちょっと変だな、《遡れば、むろんポーであり、……》というのは。

とはいえ、このくらい誰にでもあるよ

このところ中井久夫を顕揚しすぎの気味があるので、ささやかな「反動」さ

…………

炭酸ガス増加も石油不足も食糧難も、世界人口の急増なくしてはありえない。二十世紀初めの世界人口は二〇億だった。今、七〇億は間近で百億も遠くない。ホモ・サピエンス(賢いヒト)という現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億で、今生きているのが六〇億超だ。総死者のほうが少ない。これは異常な大発生ではないのか。(中井久夫「先が見えない中を生きる」初出2008.6 「神戸新聞」 『日時計の影』所収)
現生人類は第四氷河期を生き延びて、今は第四間氷期にいる(もっとも最近の研究でも氷河期は十二回あったそうだ)。だが氷河期百万年の歴史も宇宙の歴史からみれば一瞬である。実際、今までに存在した現生人類は(推定の根拠は知らないが)百億人、そのうち今生きている人は二〇〇八年で何とその三分の二の六七億人だそうである。人類はバッタの大発生の一回分にすぎないのかもしれない。そして、人類の垂れ流した大量の物を黙々と吸収している最大のものは海洋であって、深海がついに汚染で飽和する時が人類の究極の危機だという。(中井久夫「焔とこころ、焔と人類」初出2007.9 「ガスエネルギー新聞」『日時計の影』2008所収)

ほかにももっと以前のエッセイに、わたくしの気づいた範囲で、二箇所ほど似たような記述がある。上の文は、一方は「神戸新聞」、他方は「ガスエネルギー新聞」に掲載されている。誰も気づくことがなかったのだろうか。たとえば中井久夫のエッセイーの主な出版元「みすず書房」の編集者たちは気づかなかったのだろうか。

ーー《現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億》というのは桁間違いであるはずなのに。

Most studies place the total number of human beings to have ever lived at 60 billion to 120 billion and since the world population right now is a mere 6 billion, the percent of humans who have ever lived and are alive today is anywhere from a mere 5 to 10 percent.Interesting Geography Facts

粗訳すれば、《たいていの研究は、いままでに存在した人間の全総数は、600億から1200億としている。そして世界人口はこの今、わずかに60億であり、現在生きている人間はいままで存在した人間の数の5%から10%あたりである》となる。


ほかにも、たとえば"How Many People Have Ever Lived on Earth?"では、次ぎのような資料が掲載されている。




いままで生れた人間の総累計が、1076億

2011年世界人口が、70億(mid-2011) ほどとなっている。

つまり現在の人口は 6.5%ほどとなり、中井久夫の記述とは桁が違う、《現人類が二万年前に現れてからの総人口が推定百億で、今生きているのが六〇億超だ。総死者のほうが少ない》(中井久夫)

※計算方法は次ぎのようになるらしい、→ How many people have ever lived? Keyfitz's calculation updated (done June 18, 1999)


ーーでもいいさ、「知性の巨人」ヴァレリーだって、自らの精神修養として課した、カイエにおける数学の練習には間違があるそうだそうだからな

あるタイプの記憶は、何十年を経ても、薄れないということです。「心の傷は体の傷と違う、二十歳の失恋の記憶が五十年経っても昨日のことのように疼く」とポール・ヴァレリーのノートにあるます。死後五十年は発表するなという遺言を、ドゴールが、原子戦争近しというので破らせてファクシミリで刊行し、当時で二十六万円で売り出してフランス政府が儲けたという代物です。もっとも、若い時の性の相手に順番に番号がふってあったり、簡単な数式が間違っていたりして「第三共和国を代表する知性の人」にだいぶ傷がついたので、活字に直したものはずいぶんきれいごとになっています。(中井久夫「分裂病についての自問自答 初出1992 『精神科医がものを書くとき』所収)

ヴァレリー先生、あなたならきっとおゆるしになるでしょうーー、あなたでさえ、《それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然》とおっしゃておられるのですから。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。 ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。 (中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)

わたくしは、高校時代、田舎の高校生であったため、通信添削のZ会をやっていた(ようは、その高校にはまともな教師がすくなかった)。そこでの答案投稿名は「ヴァレリーの方法」だった。もちろん『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にイカレタせいである(岩波からでていたダ・ヴィンチの高価なデッサン集まで手に入れたよ)。

Z会の会報には、「ヴァレリーの方法」という名の成績優秀者名が、英語と数学の名簿でーー田舎高校生徒には珍しくーーほぼ毎回掲載された(灘高とかの連中とともにだぜ)。

オレの数学はあの頃のみに花が咲き、その後はすっかり枯れちまったよ

英語のbillionという語は厄介だな
日本語の億兆という語も厄介だ
邦訳しようとしてかなり悩んじまったよ

「万」がゼロ4つ、というのは誰でも覚えていると思うが、
「億」がゼロ8つ、という事実は、知ってはいるんだろうけど、頭に置いている人は案外少ない(たぶん)。(「Billion, Millionなど英語の数字単位を頭の中で日本の単位に換算する方法」)

ーーと記している人がいて安心したな






で、上の図の億兆ってのはあってるんだろうか?


(wiki:)