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2016年2月9日火曜日

「低学歴の人達は政治利用されやすい」といったらダメだってさ

エリック ・C@x__ok
私が低学歴の人達が政治利用されやすいと書いたら差別だと書いてくる人があとを絶たない。私はそういう差別がある事が問題なのだと書いているのだ。知識のない人はいつも利用される。知識のない人の多くが騙されて自民党に投票させられている。昔は特攻隊にされたりもした人達だ。

ははあ、《低学歴の人達が政治利用されやすいと書いたら差別だ》ということになるんだな、

次ぎのたぐいの文をしばしば引用しているオレは、もっとひどいヒドイ差別主義者だと思われてんだろうな

長い間教師をしてきた私の結論は、依怙贔屓によってしか人は伸びないということです。私ははじめから自分は依怙贔屓でゆくと公言している。個々の学生の潜在的な素質が見えてきた段階からは、教育的な配慮を平等には振り撒かないということです。(蓮實重彦)
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。 (……)

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。 (小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)
ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人々は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』P95)

かつては日本を代表した三人の批評家なんて、いまではみんな差別主義者だろうよ、

すこし穏やか系のヒューマニスト評論家の文や、さらにいっそう穏やかな精神分析医の文はどうだろう?

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(加藤周一「第2の戦前・今日」 2004)
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」)

これらはたぶん、低学歴でも高学歴でもあまりかわりないとはいえるかもな。だったらやっぱり、《低学歴の人達が政治利用されやすい》とはほとんど無意味な評言だね、そうじゃないかい?

つまり、《自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう》高学歴の人間をいやというほど目にしているのだから。

《学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものか》(蓮實重彦『凡庸な「高学歴」者の肖像』)は、凡庸でない高学歴のあなたがたなら知ってるだろうよ。

引用ついでに、やや過激系もさらに引用しておくよ。

我々のメディアは通常、「文明化された」中流階級の難民と「野蛮な」下層階級の難民ーー盗み、市民たちへの嫌がらせ、女たちへの乱暴な振舞い、公的な場での排便などをするーーとの間に線引きをする…。これら全てをレイシストのプロパガンダとして忘れ去るのではなく、人はそこにある決定的真実を見分ける勇気を結集すべきだ。彼らの蛮行、弱者や動物・女などに向かっての公然とした残虐性にいたるまでの野蛮行為は、「下層階級」の伝来の特徴であることを。…(ジジェク、13 JANUARY 2016、私訳)


ーーこの記事は、ジジェクのお友達のバディウまで、《欲望・怨恨・憎悪に悪循環の底に、世界の連帯に向けた、ある「深い」人間的核心を想定するなどというのは、(バディウの)ナイーヴなヒューマニスト形而上学の部分だ》と嘲罵しているのだが、いまの話題とはあまり関係がない。

いや、おおいに関係あるかもな、人間の本性が連帯にあるのか、それとも欲望・怨恨・憎悪に悪循環にあるのか、どちらの立場かは。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

いまはどっちの環境か、もちろん「高学歴」のみなさんはオワカリになるだろう。「低学歴」の人は、「ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈」を参照されたし。

さて、なんの話だったか。

そうだな、「低学歴の人を貶めてはならない」という、おそらく通念としての「正義」を表明してイイコぶっているのみの連中こそ真の「精神の下層階級」じゃないかね。

ーーすまんねえ、ひどい差別主義者で。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


どうしてこんなになっちまったんだろう? 「被害者」に対して、「境遇の劣った者」に対して、寛容でありさえすればいいとでもいうのかい?

どうしてだろう、 現在、とても多くの問題が「不寛容」の問題として受けとめられるのは? 不平等や搾取、不正議の問題としてではなく、「不寛容」なのは? どうしてだろう、提案される治療法は「寛容」であって、束縛からの解放や政治的闘争、さらには武力闘争ではないのは? すぐさま返ってくる答は、リベラル多文化主義者たちの基本的イデオロギー操作だ。すなわち「政治の文化化 culturalization」ーー政治的差異、政治的不平等や経済的搾取などに条件づけられた差異ーーは「文化的」差異や異なった「生活様式」へと順応させられ/脱色化される。それらは、与件としての何か・克服されえない何かであって、たんに「寛容」に扱われなければ何か、ということになる。

(……)この「文化化 culturalization」の原因は、直接の政治的解決(福祉国家、社会主義的プロジェクト等々)からの退却、失敗のせいだ。「寛容」は、それらのポスト政治的模造品である。(ジジェク、Tolerance as an Ideological Category ,2007、私訳)

弱者への「寛容」とは、(ほとんどの場合)自分はそうでなくてよかったという疚しい良心の裏返しにすぎないよ、社会的不正、資本主義(市場原理主義)の体系的暴力に対して「選択的非注意 selective inatension」をしつつのな。

90年以降の「市場原理主義」の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々だな。これら「経済のディスクール」が席捲する時代は、「エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性」という人間のタナトス的性格が支配する時代、すなわち弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代だ、《事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから》(柄谷行人)、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(中井久夫)。

我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ヴェルハーゲ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした Neoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29))

新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

きみたち「高学歴者」は、脱色化された道化師だよ 退却者たち・正義の模造品たちだな。

西洋の中流階級のイデオロギーは二つの対立する特徴がある。まず、その価値観の優越性における傲慢と信念だ(野蛮なアウトサイダーに脅かされる普遍的人権と自由)。だが同時に、その限定された領野が数多くの外部の連中…によって侵略されるという恐怖に囚われている。仲間たちの怯えは、排除された人びとの仲間入りをしてしまうのではないか、というものだ。(ジジェク、13 JANUARY 2016、私訳)

ーーだろ、きみたちの「寛容」の底にあるのは?