2016年3月20日日曜日

写真のエクスタシー

ある種の写真に私がいだく愛着について……自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕〔ステイグマ〕》が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。

※参照:ベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)





ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》

私が想像するには(私は写真家ではないから、私にできるのは想像してみることだけである)、「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真の《衝撃》は(……)精神的外傷を与えることよりも、むしろ、非常にうまく隠されているため、当事者さえも知らないかまたは意識していない事柄を、暴露することにあるからだ。(……)

写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(参照:写真の本質の飼い馴らし、あるいは白痴が微笑む世界





社会は「写真」に分別を与え、「写真」を眺める人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとする。その目的のために、社会は二つの方法を用いる。

一つは「写真」を芸術に仕立てる方法である、というのも、芸術は決して狂気ではないからえある。そこで写真家は、絵画の修辞法やその昇華された提示法を取り入れ、あくまで芸術家と張り合おうとする。実際、「写真」は芸術となることができる。だがそうなると、「写真」にはもはや狂気はいささかも含まれず、「写真」のノエマは忘れ去られ、したがって「写真」の本質が私に働きかけるということはなくなる。(……)

「写真」に分別を与えるもう一つの方法は、「写真」を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには「写真」の前に他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。そうなれば、「写真」を他の映像との関連において特徴づけ、その特殊性、その異常さ、その狂気を主張することはできなくなる。(……)





狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリズムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌をめくること)によって弱められ、相対的なレアリズムにとどもるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリズムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリズムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるのなら、「写真」は狂気となる。つまりはそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、(……)これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。

以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


さて、バルトは「エクスタシー」や「プンクトゥム」という言葉で何を言おうとしているのか。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

それは、〈私〉を引き渡すものだ。




生活欲はともあれ、若い性欲が世間の活気と、もどかしく立てる唸りと、没交渉であるわけもない。だいぶ年の行ってからのこと、私と同年配の男がごく若い頃のことだがと断わった上で、今ではまともに拭きつけられれば顔をそむける車の排気のにおいも、昔はにわかに人恋しさをつのらせて、その一日の残りをやり過ごしかねたばかりに、幾度、つまらぬ間違いをおかすはめになったことか、ともらした。しばらくばつの悪そうな間を置いてから話をつないで、それよりはまたすこし前のことになるが、車が走りながら油を零していく、その油が路上に虹よりも多彩な輪をひろげて、それが玉虫色に揺れ動く、あれを見るともう、と言って笑うばかりになった。聞いて私は、においと言えば昔、二人きりになって初めて寄り添った男女は、どちらもそれぞれの家の、水まわりのにおいを、いくら清潔にしていても、髪から襟から肌にまでうっすらとまつわりつけていたもので、それが深くなった息とともにふくらむのを、お互いに感じたそのとたんに、いっそ重ね合わせてしまいたいと、羞恥の交換を求める情が一気に溢れたように、そんなふうに振り返っていたものだが、車の排気と言われてみればある時期から、街全体をひとしなみに覆うそのにおいが、家々のにおいに取って代わっていたのかもしれない、と思った。(古井由吉『蜩の声』)


ギリシア語の έκσταση とは、Ekstase (エクスタシー・脱自)と訳されている。

それは、ハイデガーにより、Existenz(外立)とされ、ラカンによってさらに、ex-sistence(現実界 le réel )とされた。

バルトの写真のエクスタシーの「エクスタシー」は、おそらく、ただ単に官能的、絶頂という意味ではなく、この文脈のなかで捉えうる。

ラカンの変奏としては、Extimité(外密) があり、objet a(対象a)がある。

それは、私の中にあって最も親密 intimate なものでありながら、しかも私自身以上のものである。ハイデガーとラカンの言葉を援用していえば、私の非一貫性(非全体 pas-tout)中に、外立ex-sistする現実界le réelである。

まさに、バルトの言うとおり、《私自身を引き渡す》ものだろう。


(侯孝賢+辛樹芬)

対象 a の概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小 文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な 意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。

対象 a のコンパス内で、ラカンはよく知られている精神分析の部分対象を一つ一つ拾うの だが、フロイトの発展段階にかかわる口唇、肛門、ファルスだけでなく、彼自身によるいく つかをつけ加える。ラカンが対象 a の形象化として引き合いに出すのは、「乳首、糞便、フ ァルス(想像的対象)、小便(尿流)、音素、眼差し、声」(E, 315)である。

たぶん対象 a の最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味 において、である。まず、対象 a は奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なもの を示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。

ラカンは対象 a を糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き (Fort- Da いないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象 a は 「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら。」 (FFC, 62)ということになる。

おそらく対象 a を思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の 外 ex に現れ、捉えがたいものだ。 (Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001)



われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)