2016年3月23日水曜日

ラカンのテキストの「痴呆的」解釈

ラカンの「LA DIRECTION DE LA CURE」1958には、《 Le vrai de cette apparence est que le désir est la métonymie du manque à être.》という文がある。

この「欲望は存在欠如の換喩」という文を取り出して、次のように解釈する人物がいる。

「欲望は存在欠如の metonymia である」という Lacan の命題に関しては,この「存在欠如の metonymia」の「の」は同格を表しています: manque à être = métonymie(2014.9.14)
欲望が一次的である,ということをより明確に示しているのが,「欲望は,存在欠如の metonymia である」という命題です.そこにおいて,「存在欠如の metonymia」という表現のなかの「の」は,同格を表します.つまり,存在欠如はそのものとして metonymia です.(2015.5.18)

通常、所有格として使用される du を同格として扱って読みましょう、と言っているわけだ(英語のof でもそういう使い方がないわけではない)。ここから、彼は、欲望 = 存在欠如としている。

欲望の概念は,抹消された存在,すなわち存在欠如 [ manque-à-être ] へ還元されます.それは,埋め合わせ不可能な欠如です.欲望を本当に満足させることは不可能です.にもかかわらず何らかの jouissance[悦]があるとすれば,それは,まやかしであり,勘違いです.(2016.3.17)

これは通常の解釈とはまったく異なる。

まず du を同格とはけっして扱えないラカン自身の文を掲げよう。

…si le désir est la métonymie du manque â être, le Moi est la métonymie du désir. E640

「欲望は存在欠如の換喩なら、エゴは欲望の換喩である」と訳せよう。

この後半の文を上の人物のように解釈すると、エゴ=欲望となる。

すると、欲望=存在欠如=エゴとなってしまう。

セミネールⅩⅤでの「エゴは偽の存在」に代表されるように、ある時期のラカンの格闘はーーラカンをすこしでも齧ったことがある人なら周知のようにーー、エゴと主体の区別をすることだった(エゴサイコロジーに対抗して)。サイコロジーとは、ラカンにとって、エゴロジーのことである。

ところで、この人物は別にTrieb = $ = désir とも言っている。

Freud が「本能」(Trieb) と呼んでいるものは,$, すなわち,その破壊不可能性における欲望です.(2016.3.19)

この文の本能=Trieb 自体誤謬だが、ここでの話題ではない。いまはラカン自身の言葉を掲げておくだけにする。

セミネール十一巻の6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Triebを本能と訳 さないことne pas traduire Trieb par instinctによって得られるもの、そしてこの欲動を漂流と呼びcette pulsion de l'appeler dérive、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』向井グループ訳)

さて、ここまでの話題の人物の見解をまとめれば、欲動(本能) = 主体$ = 欲望 = 存在欠如であり、しかもこれがラカンの続いてある文から判断すれば、エゴ le Moi と等しくなってしまう。

ブルース・フィンクは、ラカンのエクリ全英訳後の問い直しエッセイ集で、「欲望は存在欠如の換喩なら、エゴは欲望の換喩である」をめぐって、次のように言っている。

欲望の重要な部分としての換喩の横滑りは、エゴと等しい。エゴが、我々の存在欠如を覆い隠すcover over ものとして構築されている限り。(Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink、2004)

欲望とは存在欠如を覆い隠すもの、と言っていると読んでいいだろう。

ジジェクなら、次のように言う。

欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。(From desire to drive,1996)

この二者の解釈が正しいのは、ラカンの次の文が示す。

le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance. E825


「欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である」と通常訳されるが、この訳の是非はともかく、欲望は防衛であると言っている。欲望は存在欠如の防衛である、


……我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と(ラカンは、"manque-à-être" の英訳を "want-to-be"にするよう提案している。)

言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe,2005 PDF,私訳)

すなわち、欲動に対する防衛が欲望である。

ラカンは別に次ぎのように言っている。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

去勢が意味するのは、享楽は拒否されなければならない、欲望の〈法〉の逆さになった梯子の上に到りうるために、と訳せるだろう。

ここでは明らかに、享楽と欲望を対照させて語っている。

そして享楽とは、ラカンがフロイトの欲動 Trieb を練り上げて作った概念である。

・« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (S.20)

・« pulsionnelle » …ce qui en dérive (Trieb) (L'ÉTOURDIT)

・pulsion de l'appeler dérive(TELEVISION)
欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、 また享楽で満たされる欲動なのです。(ミレール”Donc”1994

ミレールは2011年の力の入った論「L'être et l'un」でもほぼ同じことを言っている。

この人物は以前にもわたくしには驚くべき誤謬にみえる主張をしていたが(参照)、いまは固有名、つまり名前さえ掲げるのに抵抗がある。

ただし、この人物は、欲望と欲動のミレール解釈などにかかわりつつ、次のようにさえ言っており、いささかほうっておくには限度を越えていないでもない。

Miller は,Lacan が言っているのとは反対のことをテクストに固定化し,さらにそれに基づいて,Lacan の教えの誤った解釈を世界的に広めてさえいます.実例は既に示しました.そのような Miller を信用するか,それとも Lacan 自身を信頼するか?答えは明白です.(2016.3.15)

ミレールにもちろん誤読はあるだろう。かつて「私のラカンはミレールのラカンです」と言ったジジェクさえも、今世紀にはいってからは強い批判をしており、なんらかの思いがけない誤謬があるには決まっている。だが、この人物の主体やら欲望やらの最も基本的概念の「痴呆的」誤読には実に呆れ返らざるをえない。

ここまで、主体 $ の誤謬には触れていないが、Trieb = $ はあきらかに間違っている。

セミネール11には、l'avènement du sujet /l'avènement du vivant が対照されている。つまり主体の出現以前に、生きた存在の出現がある。主体が発生するのは、世界S2に、原シニフィアンが介入してのちである(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

なおかつ、セミネール17には、 《c'est le sujet, en tant qu'il représente ce trait spécifique, à distinguer de ce qu'il en est de l'individu vivant》 という文がある。すなわち、「主体は、特殊な徴(一の徴)の介入により、生きた個人 l'individu vivant と区別される」。この生きた個人は、主体 $ 発生以前の「原主体」と言ってよいだろう。

主体発生以前の存在とは、やや図式的すぎるきらいはあるにせよ、解釈者によって Sujet du désir / sujet de la pulsionや sujet du désir /sujet du corps と対照され、その後者、つまり「欲動の主体」、「身体の主体」である(標準的な神経症の、ポストエディプス的「欲望の主体」に対して)。

※図式的ではなく、より綿密に捉えるなら、実際には二項対立ではなく外立(ex-sistence = le réel )にかかわる(参照:話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)。

これらはそれぞれラカンのテキストにあらわれている言葉であり、それ以外にも assujet や sujet acéphale などがある。

主体の発生とは、原抑圧が起ったあと、としても捉えられる。

たとえば、ラカンは、欲求が原抑圧を構成して後に、欲望は現われる、と言っている、 《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)。これは、この時点で主体 $ が現われるという意味でもある。

原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳)

事実、《le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)、つまり欲求(段階)においては、いまだ主体はない、ともある。

セミネールⅩⅦの冒頭から鮮明に記されていることを要すれば、主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、原主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。

《Miller は,Lacan が言っているのとは反対のことをテクストに固定化し,さらにそれに基づいて,Lacan の教えの誤った解釈を世界的に広めてさえいます》とあったが、彼は、あきらかにラカンの教えの誤った解釈を小粒ながら日本ツイッター界に広めようとしている、しかもそれは、今指摘したように、ラカンの最も基本的概念、主体と欲望にかかわってさえである。

ツイッターなどは、誰もまともに扱っていないのだから、ほうっておけ、という立場もあるだろうが、とはいえ、この痴呆的=妄想的誤謬ぶりには茫然自失としてしまう。

もちろん専門家でもなんでもないわたくしがこんなことを言うこと自体、厚顔無恥ではあるが、ラカンのテキストから判断するかぎり、ーーかつ、ミレール派やヴェルハーゲなどの解釈に鑑みるかぎりーーそうならざるをえない、という意味である。


※補遺:主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten