2016年3月24日木曜日

主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten

ラカンのテキストの「痴呆的」解釈」にて、長くなり過ぎるので割愛したメモをここに続ける。

…quand le désir s'étant résolu qui a soutenu dans son opération le psychanalysant, il n'a plus envie à la fin d'en lever l'option, c'est-à-dire le reste qui comme déterminant sa division, le fait déchoir de son fantasme et le destitue comme sujet. (Lacan,Autres écrits,p.252)
その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する。(Lacan , Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole. Autres écritsーー赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』よりの孫引き、おそらく氏の訳)

この文において、主体の解任 destitue comme sujet と同時に、欲望  désir がーー仮に一時的なものにせよーー解消される résolu ということが示されている。

これは前回その一部を引用したが、ジジェクの次の文の内容を裏付ける。

「主体の解任」は、欲望から欲動へと領域を変える。欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。

私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。他方、欲動は、ある種の緩慢な満足を含んでいる。それは常にその道を見出す。欲動は、非-主体化的である(無頭的 acephal)。(ジジェク、From desire to drive、1996、原文)

したがって、前回掲げた人物の欲動(本能) = 主体$ = 欲望 = 存在欠如 などという解釈は、ここでもラカンのテキストに全く反する。

主体が解任され、欲望が解消されたとき現われるのは、何か。それは身体の裸の欲動 aである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)
ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

ここで、フロイト・ラカン派、の臨床家ヴェルハーゲによる「主体の解任」、「幻想の横断」のーーわたくしには正典的に思われるーー解釈を提示しておこう(Paul Verhaeghe、Causation and Destitution of a Pre-ontological Non-entity: On the Lacanian Subject 1998 原文PDF)

……この考え方(主体の解任・幻想の横断)の最初の展開は、セミネールXI に見出しうる。ラカンは、分析の終結において分析家と愚かしく同一化するのではなく、同一化の別の形式の存在を示唆している。それは、分離の過程によって、したがって対象aによって導き出されるものだ。《対象aの機能を通して、主体は彼自身から分離し、存在の迷妄に繋がることを止める。分離のエッセンスを形成するという意味で》。

《La fonction de cet objet(a), pour autant que c'est là que le sujet se sépare, qu'il n'est pas lié à cette vacillation de l'être au sens, qui fait l'essentiel de l'aliénation nous est suffisamment indiquée par suffisamment de traces.》(Lacan,S.11)


このセミネールXI にては、この考え方はさらには展開されておらず、これだけではほとんど理解し難い。

分離は、〈他者〉の介入と象徴界を通しては、起こらない。逆に、対象aと現実界を通して、起こる。事実、〈他者〉の〈他者〉は存在しない。〈他者〉は非一貫的である。

〈他者〉の非一貫性の発見は、分析の帰結であり、反映的効果 mirror effect をもたらす。〈他者〉が非一貫的なら、同じことが主体にも当てはまる。したがって、〈他者〉も主体も、そのポジションから転げ落ちる

これが、ラカンが「幻想の横断」と呼んだものである。ラカンの幻想の式 $◇a を適用すれば、この横断の意味は、主体は菱形紋◇を横切り、失われた対象a に同一化すること、すなわち主体自身の出現 advent の原因に同一化することである。

このようにして、主体は「主体の解任」に到る。すなわち、〈他者〉の不在と主体としての己れ自身の不在を想到するようになる。(Paul Verhaeghe、Causation and Destitution of a Pre-ontological Non-entity: 1998)

※なお、ジジェク=Boothbyによって、やや異なった観点からの「幻想の横断」解釈はある(参照)。とはいえ、基本は上のヴェルハーゲの説明にある。

「主体の解任 destitution subjective」とは、ラカン派精神分析の神経症治療における目標(後期ラカンのサントームの臨床は別にしてすくなくとも中期ラカンまでは)とされるもので、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)と同じことを言っている。

「主体の解任」についての別の観点からのーーいささか問題含みのーーいくらかは、「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」を見よ。


…………

※附記

幻想の横断、あるいは主体の解任後に同一化する「身体の裸の欲動 a」とは、ヴェルハーゲ解釈では次のことを意味する。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは純化された症状の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するEx-sistenzもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。」“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」

ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel という彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, ,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine wayーーフロイトの美しい表現:「真珠を生む砂粒」と「夢の菌糸体」.)

もっとも、これは「額面通りには」真に受けてはならない、というのがヴェルハーゲの説くところである。このラカンの考え方は、すくなくとも次ぎの文と同時に読まなければならない。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンが後期ラカンのサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

あるいは《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にもかかわる(参照:ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって)。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

この同一化しつつ、距離を取るということはどういうことか。

精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

※より詳しくは、「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」、あるいは 「"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」」を見よ。

今、ベルギーの臨床家、かつフロイト・ラカン派の代表的論者のひとりポール・ヴェルハーゲの見解を主に引用したが、フロイト大義派(ミレール派)も、このサントームの臨床の解釈については、ほぼ同様の見解である。

それは、たとえば、ミレール派のThomas Svolosによるサントーム小論(Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)を見よ(一部、私訳が、「ラカン派の二種類のサントーム・症状」の末尾近くにある)。

ただし、精神分析過程の締め括りの節目である「主体の解任」(幻想の横断)を徹底して先にすべきか(ヴェルハーゲ)、その主体の解任概念を置き去りにして、サントームの臨床をするのか(ミレール)の相違がある。ここに、反ミレール派のミレール批判も生じる。

 ジジェクの紹介によって、名が知られるようになった Lorenzo Chiesa は臨床家ではないが、ミレールのテキストの矛盾を鋭く突いている。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論


ところで、ミレールの最晩年のラカン読解による最後に辿り着いた見解とは、一見、中井久夫の、《一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う》に似ていないでもないのだ。

※より詳しくは、「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」を見よ。

《分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕》(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))