2016年3月25日金曜日

話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant

さて、sujet du désir / sujet de la pulsion や sujet du désir /sujet du corps と記したので(参照)、行きがかり上、この対照が具体的に何を意味するのか、を示す解釈をいくらか掲げておく(やや難解かもしれないが、資料編として)。

先に要点を言ってしまえば、前者(欲望の主体)の非全体の領域内部に外立するもの ex-sistence が後者(身体の(原)主体)である、と言いうる。それはファルス享楽 la jouissance phallique の内部に外立する他の享楽 l'autre jouissance と言い換えてもよい。

※外立(ex-sistence = le réel )についてのいくらかは、「“A is A” と “A = A”」を参照。

これはラカンの「波打ち際 littorale」概念にもかかわり(参照:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」)、かつまたラカンの遡及性の言及にもかかわる、《原初 primaire は最初 premierのことではない(根源的なものは、一次的なものではない》(S.20、摘要(参照))。

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«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient   » (15 mai 1973 du séminaire Encore)

ーーミレール版アンコールのテキストには、この文があるが、Patrick Valas版(Staferla版)にはない。いわゆる今では悪評高いミレールの「加工」のひとつではあるだろうが、意味内容としては、間違いはないように、わたくしには見える(追記:録音テープ切れであったことが判明。複数のセミネール出席者により確証されているそうだ)。

以下、ミレール版のアンコールテキストに則って書かれた2001年のポール・ヴェルハーゲの論文から私訳メモ。

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◆ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文)


【話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant 
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。

ーー「話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant」とは、「分析における転移的無意識は、既に、現実界に対する防衛」/「ララングと身体のなかの享楽との純粋遭遇」(ミレール、AMP VIII Congress, Buenos Aires 2012)の対照でもある。


【身体の享楽としてのララングから「一」のシニフィアンへ】
無意識は、母のララングからやって来るこの情動を扱う方法として、捉えうる。ララングはstocheion(原要素)、知のアルファベットの原文字を含んでいる。この原要素こそが、主体の記号へと変身させねばならぬものだ。

分析は、分析主体(被分析者)の言っていることを超えて、これらの文字を読むことを目標にしなければならない。…

これは、無性の(a 性的な[ (a)sexuée]) 痕跡とシニフィアンとのあいだの神秘的な架け橋を提供する。この記号が発足されうるのは、身体と主体との統合を請け合う主人のシニフィアン S1 の作用を通してのみである。

次の段階は、「交換価値」を伴ってやって来る。それは、主体はシニフィアンによって分割され、欲望の弁証法に入る手法によって、である。したがって、無意識は、母のララングからもたらされる情動を、「一」のシニフィアン l'Un-signifiant を適用することによって、取り扱う方法である。それは、身体からやって来るのではなく ne pas venir du corps、シニフィアン「一」からやって来る vient du signifiant l'Un 。《「一」のようなものがある Y a d'l'Un》。残されたままの問い、《Y a d'l'Un が意味するのは何か? それはどこからやって来るのか?》。ラカンはこの問いを、セミネールを通して、何度も繰り返す。しかし答えはもたらされない。事実、彼は、その仕事を通して、とくに、『アンコール』の一つ前のセミネールXIXにて、追求している。

※ stocheion(原要素)の叙述(Patrick Valas版アンコール)

《c'est l'essaim dont je parle. Le signifiant comme maître, à savoir en tant qu'il assure l'unité, l'unité de cette copulation du sujet avec le savoir, c'est cela le signifiant maître, et c'est uniquement dans lalangue, en tant qu'elle est interrogée comme langage, que se dégage - et pas ailleurs – que se dégage l'ex-sistence de ce dont ce n'est pas pour rien que le terme στοιχεῖον [stoïkeïon] : élément [élément premier→ élémentaire] soit surgi d'une linguistique primitive[cf. RSI, 18-02-1975], ce n'est pas pour rien : le signifiant 1[S1] n'est pas un signifiant quelconque, il est l'ordre signifiant en tant qu'il s'instaure de l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste. 》

※ signifiant l'Un(signifiant 1)の叙述(同上)

《Le corps, qu'est-ce donc ? Est-ce ou n'est-ce pas le savoir de l'Un ? - Le savoir de l'Un se révèle ne pas venir du corps, - le savoir de l'Un… pour le peu que nous en puissions dire, …le savoir de l'Un vient du signifiant 1 [S1].》

この「一」のシニフィアンについては、すでにセミネール17にて、「一の徴 trait unaire」と「享楽の侵入 irruption de la jouissance」.、あるいは別にその刻印という形で現れている(セミネール9,10にさえあると言ってよいかもしれない)。

《La répétition, c'est une dénotation, dénotation précise d'un trait… que j'ai dégagé du texte de FREUD comme identique au trait unaire, au petit bâton, à l'élément de l'écriture …d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. 》(S.17)

ーー参照:「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)



【フロイトの通道 Bahnungen と経験の記載 Niederschrift 】
フロイトとのつながりは、ひどく明白であり、いくつかの観点において、理解の助けになる。『科学的心理学草稿』にて、フロイトは「通道」 (Bahnungen)の考え方を詳述している。心理学的 psychological 素材は、この「通道」Bahnungen の手法によって刻印される。交換価値は後に現れる。『草稿』にて、フロイトはこの理論を、疑似-神経学用語で、言い表している。

同じ論拠の流れが、無意識におけるフロイトの理論のまさに最初から再現されている。そこでは、精神的 psychic 素材が異なったレイヤーにおいて刻印され、それぞれのレイヤーにたいして異なった刻印がある(Niederschrift 経験の記載)という仮説が立てられている。

発達におけるどのいっそうの歩みも、先立つの素材を次のレイヤーの刻印形式に翻訳する必要がある。これ自体が、防衛の可能性を作り出す。危険な・不快な素材は、先立つレイヤーの刻印形式のなかに取り残されうる。刻印の新しい形式に翻訳されないなら、それは奇妙な仕方で、己れを強く主張する。

ーーこの叙述は、フロイトの「誤った結びつけ」falsche Verknüpfung (false connection ,Freud & Breuer: 1895)にもかかわる。

《どのフロイトのキーコンセプトにも、原初 primal の形式と二番目のヴァージョンがある。原抑圧―後期抑圧、原父―エディプスの父、原幻想―幻想。われわれの論文ので文脈では、原抑圧の考え方が最も興味深いものだ。というのは、我々はそこに、症状の欲動の根、すなわち現実界を位置づけうるから。後期抑圧の後はじめて、象徴的構成が存在するようになる。フロイトにとって、これは常に、欲動の構成物と表象とのあいだの「誤った結びつけ」(falsche Verknüpfung)である。》(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、2002)


【二種類の無意識・二種類の知】
この理論は、抑圧概念にて、いっそうの加工 elaboration を与えられる。重要なことは、フロイトは無意識の二つの異なった形式、知の二つの異なった形式を導入していることだ。

正式の抑圧ーー文字通りには「後期抑圧」(Nachdrängung)--は、言葉の素材、不快の担い手となる言語表象をターゲットにしている。抑圧過程は、これらの言語表象を弱めるための旺盛な注ぎ込み(備給 cathexis)をする。したがって、言葉の力動的な意味において、それらを無意識にする。

この注ぎ込みは、別の言語表象に移し変えられる。そこにおいて抑圧されたものの回帰が起こる。「後期抑圧」は、「抑圧された無意識」、あるいは「力動的無意識」を形成する。

この点において、ラカンのアイデア、すなわち、《無意識は言語のように構造化されている》を認めるのはそれほど難しくはないだろう。事実、抑圧された無意識は、〈他者〉からやって来るシニフィアンを伴っている。欲望(人間の欲望は〈他者〉の欲望)を基盤とした交換(無意識は〈他者〉の言説)、その交換のあいだにやって来るシニフィアンである。

これは素材の交換価値である。シニフィアンとして、〈他者〉から来る知を含んでいる。この知は、抑圧されたものの回帰によって、十全に知られうる。主体は、これについて、「全て」を知っている。しかし、知っていることを知らないだけである。この知は性的・ファルス的知にかかわり、フロイトは、解釈はつねに同じ事に終わると不平を漏らした。


【後期抑圧の彼方にある原抑圧】
この知は、フロイトの思考においても同様に限界に到る。「後期抑圧」の彼方には、無意識の別の形式に属する「原抑圧」が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。そのプロセスとして、原抑圧は、まず何よりも「原固着」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。

それは決して言語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。

これに基づいて、フロイトは、システム無意識 system Ucs(Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して誘引力を行使する。

《…« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. 》(ラカン、アンコール)

ーー「フロイトの欲動 Trieb を「漂流」と翻訳する、享楽の漂流と」

※参考

《享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。[ la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive.] 》(『彼自身によるロラン・バルト』)


【分節化された知 a / − φ 内部の非全体に外立する (a) 】
ラカン的観点からは、これは次のように記しうる。すなわち、性化され・ファルス化され、分節化された素材は、この分節化された部分内の非全体の領域によって誘引される、と。つまり、a / − φ 内部の (a) である。

力動的・抑圧された無意識とは対照的に、このシステム無意識には言語表象はない。

※参考:セミネールⅩⅩⅡより、 (a) をめぐる叙述。

《Le sujet est causé d'un objet qui n'est notable que d'une écriture(...). L'irréductible de ceci… qui n'est pas effet de langage, car l'effet du langage, c'est le παθείν [ pathein ]

…c'est la passion du corps.

Mais, du langage, est inscriptible, (…) en tant que le langage n'a pas d'effet …cette abstraction radicale qui est l'objet (…), que j'écris de la figure d'écriture (a), et dont rien n'est pensable, à ceci près que tout ce qui est sujet… sujet de pensée qu'on imagine être Être …en est déterminé. 》(S.22, 1975.1.21)


(粗訳)

《主体は対象によって引き起こされる。それは、エクリチュールによってのみ書き留められる(…)。ここにおいて還元不能なもの…それは言語の効果ではない。言語の効果、それは παθείν [ pathein ] 、身体のパッション la passion du corps である。しかし、言語を通してーー言語がどんな効果もない限りでーー、それは刻印されうる inscriptible(…)。この対象であるところの根源的な抽象作用 abstraction radicale(…)、それを私は、 (a) と書き留める。それは何も考えない。主体である全てを除いて…、人が「存在」すると想像する imagine être Être 考える主体…それは (a) によって決定付けられている。》



【フロイト・ラカンの核心となる問い
そのとき核心となる問いはこうだ。すなわち、固着されるのは欲動なのか、あるいはこの固着が欲動の表象の原形式なのか? さらなる問いは、刻印の形式などあるのか? フロイトはそれを「Kern unseres Wesen (我々の存在の核)」、「mycelium(菌糸体)」と呼んだが、また躊躇ってもいる。

実際のところ、問いが立てられなければならない。潜在夢思考は一体どこかに「現前」しているのか? 一体どこかに刻印されているのか? あるいは逆に、元々存在しないものとして考えられるべきではないのなら、夢形成は、あのような元々から欠如している精神的加工を起こすのか?

この場合、夢分析は、隠された刻印の発見にはつながらない。逆に、シニフィアン内部での、加工過程--元々そこにはない何かを生む過程--ということになる。

ここで、注意しておかねばならない。フロイトは同じ種類の議論を、トラウマを語ったときに、提示していることを。トラウマの外傷的影響は、トラウマが生じたとき、言葉で言い表せないという事実によって引き起こされる。シニフィアン内での加工(エラボレーション)が欠けているのだ。

これは、セミネールXI におけるラカンの考え方と完璧に一致する。そこでラカンは、無意識を実体的な核としてではなく、 “cause béante”(裂開的原因 として叙述している。何かが実現されることに失敗するのだ。

フロイトには、システム無意識における欲動刻印の特性についての最終的議論はない。彼にとって、それは、一般的には固着、個別的には身体のの考え方をもたらす。したがって、我々は、固着と似たような表現、構成、欲動の根、somatic compliance(訳語不詳:身体の服従? 原独語はSomatisches Entgegenkommen)を見出す。

これらの表現は、フロイトの症例研究すべてに現れる。そして常に幼児の快楽の形式にリンクされている。


【ラカンの格闘】
1964年以降、ラカンはこの問いを取り上げ、それと格闘した。Bonneval会議とRicoeurとの議論、同様に、彼の弟子であるLaplanche と Leclaire との議論。ラプランシュとルクレールは、無意識の核には表象的でシステムがある、という仮説を提議した。ルクレールにとっては音素、ラプランシュにとってはイマーゴ imagoes(シニフィアンなしの感覚映像)。

ラカンは最終的にどちらの答も拒絶し、彼自身の解決法、対象a と文字 lettre の理論を提示する。(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴) の末尾)

ラカンはセミネールXXII, R.S.I.でも、システム無意識における欲動の表象代理 Vorstellungsrepräsentanz とともに、再び文字の考え方を取り上げる。この文字は、個別な仕方にて我々に現れる。その仕方において、欲動は個別の主体にとって固着されるが、明確な仕方、「一」のファルスシニフィアンのような仕方では、シニフィエされえない。

文字として、それは知を含んでいる。しかしこの知は、〈他者〉の非全体の部分を形成している。したがって、この〈他者〉はその知について無知である。この知を想起するのは、身体の〈他者〉である。そして、享楽の経済内部で、そのたびごとに、同じ道 tracts を追跡する(フロイトの「通道 Bahnungen」)。しかし、享楽の経済は謎のままである(S.20,p.105)。

この概念化は、分析の終りをいかに捉えるかにとって重要である。一方で、システム無意識の核が表象代理的性質ならば、それは言語化され、治療のあいだに解釈される。他方、もしそうでないなら、治療の最終目標は見直されなければならない。というのは、「充溢したパロール」は構造的に不可能となるから。ラカンは、彼の最後の理論で、後者の選択肢を選んだ。そして、分析の最終の目的として、症状の現実界とに同一化を推進した。

※「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」(仏語 représentant-représentation,英語 ideational-representative )。表象代理とは、「主体の生活史をつうじて欲動 Triebe の固着の対象となり、また、心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群」。


【当面の結び】
他の享楽ーー〈他者〉は非全体 pas tout (非一貫性)であり、その〈他者〉のなかの部分として外立する他の享楽(一般的には、 l'autre jouissance のことで、〈他者〉の享 楽 jouissance de l'Autre ではないが、このあたりは微妙。ラカンは〈他者〉の享楽を他の享楽の意味で使っていることもある。後引用)--は、ある知を意味する。その知は、享楽の経験、身体の上に刻印を引き起こす経験を通して、身体によって獲得される。この知は、分節化された非全体の部分、シニフィアンの〈他者〉のファルス的知の非一貫性の部分にかかわる。知として、それは言語の〈他者〉に属していない。かつまた仮定された底に横たわる存在にも属していない。それはエクリチュールを通してのみ把握されうる。もっとも我々は認知しなければならない、それを形式化しようとするどんな試みも袋小路に遭遇することを。

これに関連して、無意識の二つの形式、知の二つの形式がある。「システム無意識」は、言語化されえない裂け目であり、欲動と享楽を含んでいる。したがって原因-根拠として作用する。この「システム無意識」は、「抑圧された無意識」--そこには、主体によって知られうる分節化された知があるーー、この内部に外立する。この知は、交換価値、したがって〈他者〉の言説と〈他者〉の欲望に関係がある。この分裂(分割)は、「他の享楽 l'autre jouissance」と「ファルス享楽 la jouissance phallique」とのあいだ、「他の知」と「分節化された知」のあいだに描かれる。…

ーーここにおいても、フロイト概念を想起することができる。ラカンが外立 ex-sistence(= le réel )や外密 Extimité というとき、まずはフロイトの Fremdkörper(異物、身体のなかの異物)である(もっとも、これをȺと捉えるか、S(Ⱥ)と捉えるかは、議論の分かれるところではある)。


(ヴェルハーゲ、1998)


フロイト自身の記述をまず抜き出そう。

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper と比較して、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ欲動衝拍Triebregung にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動衝拍Triebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926、旧訳フロイト著作集6 p327-328 からだが、一部訳語などを変更)

たとえばラカンの「サントーム」のセミネールに、”un corps qui nous est étranger”という表現があある。これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

《l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient.》 (lacan Le Séminaire, livre XXIII, Le sinthome, 1976.5.11)

かつまた、ラカンがセミネールⅩⅠで、現実界を語ったとき、フロイトのトラウマに結びつけている。

《…le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma,…》(S.11)

そして言語で表象されえないもの、それが欲動 pulsion であり、現実界 le réel である。

《Toute pulsion étant… par essence de pulsion …pulsion partielle, aucune pulsion ne représente… 》(S.11)


フロイトの Fremdkörper(身体としての異物)は、初期フロイトには次ぎのように現われる。

心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物ーーそれは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、1893年)

このあたりのことが、ラカン派内部でさえたいして気づかれていないのも、ヴェルハーゲが次ぎのようにいう理由のひとつだろう。

私の意見では、現在、フロイトは充分に研究されていない。精神分析家集団の内部でさえもである。(Paul Verhaeghe、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、参照

ラカンの〈他者〉のなかの欠如 Ⱥ も、まずはこの観点から捉えなおす必要があるに相違ない。

そもそもブルース・フィンクは、1995年の時点ですでに、 S(Ⱥ) は S(a) と捉えられると言っている(ラカンのテキストのある文脈において)。すなわち、Ⱥ = a でもある(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))。

現実界を、もし仮に遡及的でなく発達段階的に捉えるのなら、自らの欲動興奮を表象できないことに対する原トラウマであり、そのトラウマとは、乳幼児の無力感(フロイトの寄る辺なさ Hilflosigkeit)が主な要因のひとつされる(そこから、分離不安/融合不安への移行がある:参照)。

ただし、遡及的観点からみればーーたとえばポスト・エディプスの標準的な主体からの視点ならーー、ジジェクのような言い方がなされる。

現実界は、象徴秩序と現実性 reality とにあいだの外的な対立が、象徴界自体に固有なものであり、象徴界内部から象徴界が損なわれるという点にある。すなわち、現実界とは、象徴界の非全体 pas-tout なのだ。現実界があるのは、象徴界がその外部の現実界を掴みえないせいではない。そうではなく、象徴界が十全にそれ自身になりえないせいだ。存在(現実性)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で、欠陥があるせいである。というのは、現実界とは、形式化の行き詰まりだから。(Zizek,LESS THAN NOTHIG,2012,私訳)

…………

※参照

以下の文で、「我々のリアルな有機体は、最も親密な異者 our real organism as the most intimate stranger」とあるのが、フロイトのFremdkörper〔異物)であり、ラカンの Extimité (外密)であるだろう。そして、セミネール23の“un corps qui nous est étranger”という表現の言い換えでもある。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳ーー「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より)