2016年12月25日日曜日

寛容という偽善

男女同権なんて言っている連中は偽善に決まっている」で記したことに、ラカン派によるひねくれた解釈云々と言ってくる人がいるが、あれらは基本的に「心理学」の話だよ。すぐれた「心理学者」による文学ーーたとえばドストエフスキーとかプルースト等ーーあるいはニーチェにはふんだんにある。

放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、ーーもしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。(ニーチェ『曙光』315番)
危険な美徳。--「彼は何ものも忘れない。しかし彼はすべてを大目に見る。」--そのとき彼は二重に憎まれる。というのは、彼はその記憶と寛容によって二重に人を恥かしがらせるからである。(『曙光』393番)

…………

享楽の基本的パラドックス…。享楽のどの放棄も、放棄することの享楽を生む。欲望のどの障害物も、障害物への欲望を生む、等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
…我々はまた、アイデンティティのポリティカル・コレクトネス主張という基本的パラドックスにおいて、剰余享楽 Mehrgenuss (plus-de-jouir )に出会う。周辺的で排除されたアイデンティティであればあるほど、人は民族的アイデンティティと排他的な生活様式の主張を許容される。これがポリティカル・コレクトネスの風景がいかに構成されているかの在り方である。すなわち西側世界から遠く離れた人々は、本質主義者-人種差別主義者のアイデンティティ(アメリカ原住民、黒人…)と公然と非難されることなく、彼ら固有の民族的アイデンティティの十全な主張を許容される。人が悪評高い白人の異性愛男性に近づけば近づくほど、そのアイデンティティの主張はいっそう問題視される。アジア人はまだ大丈夫だ。イタリア人、アイルランド人もたぶんいける。ドイツ人やスカンジナビア人は既に問題である…

しかしながら、白人の固有アイデンティティ(他者の圧制のモデルとして)のこのような禁止は、彼らの罪の告白を表出をしているとはいいながら、それにもかかわらず、彼らに中心ポジションを授与する。すなわち、彼ら固有のアイデンティティ主張のこの禁止自体が、彼らを普遍的-中立の媒介者、場ーーそこから他者の圧制についての真理が接近しうるーーにする。

この中心ポジションが剰余享楽 Mehrgenuss であり、アイデンティティの放棄によって生み出された快楽である。西側の我々が人種差別を本当に打倒したいなら、最初にしなければならないのは、この終わりなき自責のポリティカル・コレクトネス過程から離脱することである。

Pascal Bruckner の現代左翼への批判はしばしば冷笑に近づいているとはいえ、時に優れた洞察をもたらさないわけではない。人は彼に同意せざるを得ない。ヨーロッパ人のポリティカル・コレクトネス的自己責苦のなかに、転倒された優越性への執着を Bruckner が嗅ぎ付ける時。

西側の人間が非難された時、最初の反応は攻撃的防衛ではなく自己反省である。ーー我々はその報いを受ける何をしてきただろう? 我々は究極的には世界の悪の責任がある。第三世界の惨事とテロリストの暴力はたんに我々の犯罪への反応にすぎない…

このように、白人の「重荷」(植民地化された野蛮人を文明化する責任)のポジティブな形式が単にネガティブな形式に置き換わったにすぎない(白人の罪の重荷)。すなわち、我々がもはや第三世界の慈悲深い主人であり得ないなら、少なくとも特権化された悪の源泉であり得ると。恩着せがましく第三世界の破滅の責任を取り上げてやりつつ(第三世界のある国が酷い犯罪に携わったなら、それは決して彼らだけの責任ではなく、常に植民地化の後遺症だ。彼らは単に植民地の主人が為したことを模倣しているだけだ、等々)。この特権意識が、自責によって獲得された剰余享楽 Mehrgenuss である。 (Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)

もっともこれは「質の高い」白人リベラルへの批判ではある。白人保守主義者たちは、米人、英人、仏人、独人等々、彼等自らのアイデンティティに恥じないだろう。

フランスは…わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。…フランスは(人種差別において)ドイツやイギリスに比べてもはるかに悪い。(『ジジェク自身によるジジェク』)

さらに享楽の経済の一般論。

……もっと一般的に言えば、すべての政治は、あるレベルの享楽の経済に頼っているし、さらにそれを巧みに操ることにある。私にとって、享楽の最もはっきりした例は、1943年のゲッペルスの演説である。――すなわちいわゆる総力戦 Totalkrieg 演説だ。スターリングラードでの敗北後、ゲッペルスは総力戦を求める演説をベルリンでやった。すなわち、通常の生活の残り物をすべて捨て去ろう!、全動員を導入しよう!、というものだ。そして、あなたはこの有名なシーンを知っているだろう、ゲッペルスは二万人のドイツ人群衆にレトリカルな問いかけをするあのシーンだ。彼は聴衆に問う、あなたがたはさらにもっと働きたいか、もし必要なら一日16時間から18時間?そして人びとは叫ぶ、「Ja!」。彼はあなたがたはすべての劇場と高級レストランを閉じたいか、と問う。人々は再び叫ぶ、「Ja!」

そして同様の問いーーそれらはすべて、快楽を放棄し、よりいっそうの困苦に耐えることをめぐっているーーが連続してなされたあと、彼は最後に殆どカント的な問いかけをする、カント的、すなわち表象不可能の崇高さを喚起するという意味だ。ゲッペルスは問う、「あなたがたは総力戦を欲するか? その戦争はあまりにも全体的なので、あなたがたは今、どのような戦争になるかと想像さえできないだろう、そんな戦争を?」 そして狂信的なエクスタシーの叫びが群衆から湧き起こる、「Ja!、 Ja!、 Ja!」ここには、政治的カテゴリーとしての純粋な享楽があると私は思う。完全にはっきりしている。まぎれもなく、人びとの顔に浮かんだ劇的な表情、それは、人びとにすべての通常の快楽を放棄することを要求するこの命令は、それ自体が享楽を提供しているのだ。これが享楽というものである。(Slavoj Zizek and Glyn Daly(邦訳名『ジジェク自身によるジジェク』,2004、私訳)

このあたりの機制は、政治学者や社会学者やらのあいだで流通している「パターナリズム」概念だけでは処理できない話だとわたくしは思う。

ほかにも若き柄谷行人によるすぐれた指摘がある。

《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

ーーニーチェがどこでいっているかと言えば、『道徳の系譜』において(『道徳の系譜』は、もっともよくまとまったニーチェの主著だろう。アフォリズムに鈍感な人でもあれを読めばある程度分かってくる)。

結局、ニーチェやジジェクなどがやっていることは次のような「嗅覚」にかかわる。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

《ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。》(フロイト『自己を語る』1925 )