2016年12月23日金曜日

母なる超自我 surmoi mère、あるいは母の法 la loi de la mère

症状とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

《ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. 》(ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

…………

埃っぽい路傍の早朝
幼児たちが不安そうな顔をして集まっている
集団登園の初日
母親たちもいる

子供たちは襷がけに白いハンカチをぶらさげている
彼だけが色物のハンカチだ
自分で気づいたのか
誰かに指摘されたのだったか
彼は顔をゆがめて泣き出した

母が慌てて傍によってくる
見知らぬまわりの子供たちのまなざし
付添いの母親たちのまなざし
母の紅潮して困惑した顔
「母の魂に最初の皺をつけたような、
そこに最初の一本の白髪を生じさせた」(プルースト)
母はハンカチにとりかえに
家に戻ったのだったか

田圃を貫く真っ直ぐな道
鎮守の森が遠くにみえる
丈たかい稲の穂が風に揺れている
あそこまで歩いていくのか
母なしで




もっとずっと遠い感じだったことを除けば、このウィキペディアの「鎮守の森」の項にある写真のような光景だった。道には草は生えていなかったけれど。

じつにブラックホールのような景色だ。何度も何度も夢に見て冷や汗が出た。
その夢がやんだのは母が死んだあとだった。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)





やあきみたちはいいね、こういった苦痛がないらしくて。蚊居肢散人は、最近ようやく分かって来たよ、これが分かりたいためにフロイトやラカンをひっくり返していたのだが。

昔は吉行などを読んで慰めを見いだしていたのだが、これもあくまで慰めにすぎないさ。

少年の頃、激しく傷つくということは、 傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。(……)さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結 局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。 追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)

やはり理論的に分かりたかった。ま、分かってどうなるものでもないのだが。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安と して解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配して いるのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由であ る。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不 安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

蚊居肢散人の攻撃性発露には気を付けたほうがいいよ、わかるかい、神経症諸君?

《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan.S5)

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(ジャック=アラン・ミレールーー女性嫌悪 misogyny をめぐって

S(Ⱥ)とは、ラカン派では、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

さあてと、クリスマスだな、しばらくオヤスミすることにする。すこしは「自由」になった気分だな・・・

受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成するば、ただちに受動の感情ではなくなる。(スピノザ『エチカ』)