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2017年5月12日金曜日

あの歌を聞くと

◆Hör' ich das Liedchen klingen (あの歌を聞くと)




「あの歌を聞く」をいくらか聴き比べているなかで行き当たった映像だが、まいったな・・・二度と繰り返したくない「青春」だ、思い出しちゃったよ、14歳のあの少年を。

(蚊居肢子は13歳から14歳にかけて生涯もっとも大きな恋をして(4年ほどの間を置いて18歳以降数年も同じ少女にひどく苦しんだ)、それ以外の恋はせいぜいあの十分の一くらいの痛みしかない。)

孤独な人たちの嫉妬。 ――社交的な性格の人たちと、孤独な性格の人たちの間には(どちらも才気があるとして)、次のような相違がある。前者はある物事にーーそれが何であろうとーーそれを伝える適切な言い回し方を自分の才気の中で発見した瞬間から、満足し、あるいはほとんど満足する。――これは彼らを悪魔とも和解させる! しかし孤独な人たちは物事に対して、胸に秘めた歓喜と苦悩とを抱いている。彼らはその深く秘めた諸問題を才気煥発に輝かしく陳列することを憎む。これは彼らがその愛人のあまり上品すぎる衣裳を憎むのと同じようである。そのとき彼らは、愛人が他人の気に入ろうとしているのだという疑念を胸に浮かべたかのように、愛人を憂鬱にじっと見る! これは、あらゆる孤独な思想家と情熱的な夢想家とが、エスプリに対して抱く嫉妬心である。(ニーチェ『曙光』 524番)

◆Hör ich das liedchen klingen, (Dichterliebe), Op. 48/10 - Schumann




真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

◆Fritz WUNDERLICH. Hör´ich ds Liedchen klingen. Schumann.



嫉妬するわたしは四度苦しむ。嫉妬に苦しみ、嫉妬している自分を責めて苦しみ、自分の嫉妬があの人を傷つけるのをおそれて苦しみ、嫉妬などという卑俗な気持に負けたことに苦しむのだ。つまりは、自分が排除されたこと、自分が攻撃的になっていること、自分が狂っていること、自分が並みの人間であることを苦しむのだ。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)