「物の見へたるひかり いまだ心にきえざる中にいひとむべし」(芭蕉、赤さうし)
庭仕事に訪れる乙女、本日ひさしぶりに腰パンなり。数日収穫皆無にて失意の日をおくりしが、本朝ゆらめく閃光再顕。ただし奥の繊毛の震えを垣間見るにはいたらず。
いわば初日のここから、
本日はこの程度なり。
庭仕事に訪れる乙女、本日ひさしぶりに腰パンなり。数日収穫皆無にて失意の日をおくりしが、本朝ゆらめく閃光再顕。ただし奥の繊毛の震えを垣間見るにはいたらず。
いわば初日のここから、
本日はこの程度なり。
とはいえこれもまた味わい深し。むしろこれこそ前句のアリアドネの糸の縁にあらずや。
前句へ付け候こと、今日初めて俳諧仕り候ものも付け申し候へば、かならず前句へ付くべからず。随分はなれても付くものなり。付け様は、前句へ糸ほどの縁を取りて付けべし。前句へ並べて句聞へ候へば、よし (芭蕉)
エロスとは芭蕉似庵のロラン・バルトのいう如く、出現‐消滅の場にのみあり。
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
過度の露出に遭遇すればエロス消滅に見舞われるのは周知なり。
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。
ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。
やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
人は、バルトの安吾パクリを疑うべし。
それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)