ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)
…………
惚れ惚れするなあ、なんて美しいんだろう。
顔つき正面版もあるが、ま、これだっていいさ。
三島由紀夫だなあ、
それは決して男を知った乳房ではなく、まだやっと綻びかけたばかりで、それが一たん花をひらいたらどんなに美しかろうと思われる胸なのである。
薔薇色の蕾をもちあげている小高い一双の丘のあいだには、よく日に灼けた、しかも肌の繊細さと清らかさと一脈の冷たさを失わない、早春の気を漂わせた谷間があった。四肢のととのった発育と歩を合わせて、乳房の育ちも決して遅れをとってはいなかった。が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎわの眠りにいて、ほんの羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましそうにも見えるのである。 (三島由紀夫『潮騒』)
わたくしは潮騒の舞台となった「神島」に何度も訪れている。
神島は伊勢湾の入口、渥美半島の伊良湖岬から伊良湖水道を挟んで約3.5km、志摩半島の鳥羽佐田浜港から約14kmで渥美半島寄りにある。鳥羽市側の菅島よりも伊良湖岬の方が近い。(wiki)
朝思いついたようにバスに乗れば一時間半ほどで伊良湖岬に着き、そこからポンポン漁船に乗って10分もかからない。
歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
歌島に眺めのもつとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかつて建てられた八代神社である。(……)
八代神社は綿津見命を祀つてゐた。この海神の信仰は、漁夫たちの生活から自然に生れ、かれらはいつも海上の平穏を祈り、もし海難に遭つて救はれれば、何よりも先に、ここの社に奉納金を捧げるのであつた。(……)
眺めのもつとも美しいもう一つの場所は、島の東山の頂きに近い燈台である。
燈台の立つてゐる断崖の下には、伊良湖水道の海流の響きが絶えなかつた。伊勢海と太平洋をつなぐこの狭窄な海門は、風のある日には、いくつもの渦を巻いた。水道を隔てて、渥美半島の端が迫つてをり、その石の多い荒涼とした波打際に、伊良湖崎の小さな無人の燈台が立つてゐた。歌島燈台からは東南に太平洋の一部が望まれ、東北の渥美湾をへだてた山々のかなたには、西風の強い払暁など、富士を見ることがあつた。(三島由紀夫『潮騒』)
20歳ぐらい以後は車を運転して訪れたが、一度車の修理中にかつてを懐かしむようにしてバスで行ったーー女友達とーーことがある。二人以外は誰も乗っていない。
後部座席でオイタをしていたら、すれ違うトラックが溝にはまって傾いてとまった。少女と目を合わせて思い切り笑った。
……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。
(……)彼女の脚、かわいらしいぴちぴちした脚は、あまりかたくはとじられず、私の手が求めていたものをさぐりあてると、よろこびと苦痛の相半ばした、夢みるような、おびえたような表情が、あどけない顔をかすめた。彼女は私よりもやや高い位置に腰をおろし、一方的な恍惚状態におそわれて私に接吻したくなると、彼女の顔は、まるで悲しみに耐えられなくなったように、弱々しく、けだるそうに私にしなだれかかり、あらわな膝は、私の手首をとらえて、しめつけては、またゆるめた。そして、何か神秘的な薬の苦さにゆがんで小刻みにふるえる唇が、かすれた音をたてて息を吸いこみながら、私の顔に近づいた。彼女は最初、愛の苦痛をやわらげようとするかのように、かわいた唇を、あらあらしく私の唇にこすりつけたが、やがて顔をはなし、神経質に髪の毛をうしろへはらってから、またそっと顔をよせて、かるくひらいた唇を私に吸わせた。一方私は、心も首も内臓もすべてを惜しみなく彼女にあたえたい一心から、彼女のぎごちない手に私の情熱の笏〔しゃく〕を握らせた。(ナボコフ『ロリータ』)