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2017年9月14日木曜日

内耳の声

迷路の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)

ヴェーラは美しい。




誰にでもあなた自身のヴェーラがいるはずである。

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(吉岡実「恋する絵」)

ヴェーラは19歳で死んだ。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。(愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf)

迷宮 Labyrinth を彷徨えば、人は内耳Labyrinth の歌を歌う。


賢くあれ、アリアドネ Ariadne!……
そなたは小さき耳 kleine Ohren をもつ、
そなたはわが耳 meine Ohren をもつ。
一つの賢き言葉を汝が耳に納めよ!
ひともし愛し合うべきなれば、先ずもって憎み合うべきにあらずや?……
われは汝が迷宮なり Ich bin dein Labyrinth.

(ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne


内耳からは柔らかい触手が伸びてくる。

男根が子宮口に当り、さらにその輪郭に沿って奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる場合が、稀にある。小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚がつたわってくる(吉行淳之介『暗室』)

声なき声が泡立つのである。

あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(川端康成『雪国』)

ヴェーラ Wera Ouckama Knoop(19歳で白血病死)は、リルケの娘 Ruth Rilke の友人だった。

リルケのオルフォイスは、ヴェーラの魂が《命令し、強制して》生れた。


立ち昇る一樹。おお純粋の昇華!
おおオルフォイスが歌う! おお耳の中に聳える大樹!
すべては沈黙した。だが沈黙の中にすら
新たな開始、合図、変化が起こっていた。

静寂の獣らが 透明な
解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た。
しかもそれらが自らの内にひっそりと佇んでいたのは、
企みからでもなく 恐れからでもなく

ただ聴き入っているためだった。咆哮も叫喚も啼鳴も
彼らの今の心には小さく思われた。そして今の今まで
このような歌声を受け入れる小屋さえなく

僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。

ーーリルケ「オルフォイスに寄せるソネット」より 高安国世訳


ここに内耳の深淵の声を聞かない者は、まさかあるまい?

最も静かな時刻にきこえて来るあのざわめき

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

デリダは死の直前、徹底的に美しく注釈した。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。(デリダ、2004、Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDA

アウグスティヌスはこのアリアドネの声を次のように表現した。

神はわたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)(聖アウグスティヌス『告白』)

プルーストならこう言う。

自我であるとともに、自我以上のもの il était moi et plus que moi (『ソドムとゴモラ』)

ラカンヴァリエーションなら次の通り。

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)
親密な外部、この外密 extimité が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7)

物 das Dingとは、至高善 Souverain Bien である、《le Souverain Bien, qui est das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, est un bien interdit, et qu'il n'y a pas d'autre bien.(Lacan,S7)

かつまた《物は、近親相姦の対象である母 la mère, qui est l'objet de l'inceste》とあるが、これはあまり気にしないでおこう。ラカンは口が滑っただけである。

肝腎なのは、親密でありながら外部にあるものである。外密 Extimité とは親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈異物〉、折口のいうマレビトである。

対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16)
要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16)

すなわち、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人》の声とは、実は子宮の声である・・・最も静かな時刻にきこえてくるのは、この声でなくてなんだというのか?

そして内耳の声、迷宮の声、アリアドネの声も、もちろん子宮の声である。われわれは誰もが母胎内で子宮の声を聴いて育っている。

最も静かな時刻にきこえて来る声とは《細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる》声にきまっているのである。リルケはこれを《静寂の獣らが 透明な/解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た》と表現した。

ここでフロイトをも引用しておこう。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎内への回帰 Rückkehr in den Mutterleib(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ああ、それにしても、リルケ!
《僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。》

なんと美しい詩句だろう

暗い欲望からの避難所さえ無かったところに
聴覚の中にの神殿を造るなどと・・・

門柱の震える狭い戸口からは
《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(吉岡実)のである!




老子よりも格段に美しい。

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章

《幸福に至る門は狭い。狭き門より力を尽くして入れ。》(アンドレ・ジイド)

それにしてもあの閾の向こうには何があるというのか?


幸福とはまぢかい迫りつつある損失の性急な先触れにすぎないのだ
……
たとえば閾。愛しあう二人は、昔からある扉口の閾を
かれら以前の多くの人、またかれらの後にくる未来の人々と同様に
すこしばかり踏みくぼめるが、それは二人にとって
通常の閾だろうか……、いな、かろやかに越える閾なのだ、

ーーリルケ『ドゥイノ』「第九の悲歌」手塚富雄訳)

かろやかに閾を越えた後にあるのは
性交後の悲しみTristis post Coitumである

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より