弁護士 太田啓子 @katepanda2 2017-09-03
「真空パック アダルトビデオ」で検索して吐き気。仮に作り物であったとしても、あれに性的に興奮するのは猟奇的。猟奇的な嗜好も内心に留まるなら自由だけどその嗜好が表出した表現物には恐怖を覚えるとしか。本当に真空パックにしているなら即刻全現場でやめるべき。死人が出かねない。
「真空パック アダルトビデオ」がどんなものなのか調べてみた(わたくしはいささかの倒錯の気味があるが、この手はまったく疎い)。
ーー太田啓子さんの《あれに性的に興奮するのは猟奇的》とは、実に「正当的な」意見だとまずは思う。
ところでこんなツイートも拾った、
@PanthertypeF 9月4日
・真の変態だから「真空パックAV」と聞いて即座に「バキュームベッドの代わりに布団圧縮袋使った危険な奴だな」と察しが付くし「日本だけじゃなくて世界でも愛好家が居るんですよ~正しい道具使ってる奴はきちんと気を付けてるんですけどね~あれはダメだ」まで言える。日本のあれはマジでダメ。
・こういった「BondageSM」は欧米発祥で歴史も古く、考えられた道具が整備されているのですが、バキュームベッド/バキュームキューブは大気圧の関係で頑丈になり、その文値段が…で、安い圧縮袋に手を出す場合があるのですが、呼吸口の確保をしてない場合があって大変危険なんです。
次のものが「正しい」バキュームベッド Vacuum bed と呼ばれるもののようだ。これは英語版WIKIにもその解説がある。
そして日本版のひとつとしてネット上から拾えるものは次のGIFである。
これがPanthertypeF氏のいう《安い圧縮袋》なのだろう。たしかに《呼吸口の確保をしてない場合があって大変危険なんです》という例であるように見える。
おそらく、こういった倒錯的で危険そうなものを知っていても、多くの人は、太田啓子さんのように強い意見ーー《本当に真空パックにしているなら即刻全現場でやめるべき。死人が出かねない》ーーを言いにくくなっているのだろう。もちろんマイノリティを擁護するというポリティカルコレクトネスの影響が強くあるはずである。
だが、人は不快を感じたらーー脊髄反射的ではいささか問題はあるにしろーー、太田啓子さんのような主張を遠慮なくすべきではないだろうか。その主張がPC的に「誤謬」があることが後に判明してさえ、まずはそうすべきではないか。強い意見をいわなければ危険の有無も公然と議論されることがひどく遅れる(議論されるのは、たとえば死者が出たあとだろう)。
17年前浅田彰が次のように言っているが、現在はますます《「他者」を傷つけることを恐れて何もできなく》なっているように思える。
すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(浅田彰シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000年)
…………
以下に、ジジェクがポリティカルコレクトネスの行き過ぎを説く文脈で書かれている「屍姦愛好者の権利」と「聾者の国 Deaf Nation」をめぐる文を掲げておく。
【屍姦愛好者の権利】
最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案(……)。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』原著2006年)
【聾者の国 Deaf Nation】
聾者の国 Deaf Nation の事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性 separateness であることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義 Oralismと呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009)
このようにして、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義 Oralism の犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。 この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に行くことを想像すればよい。もし聾者の国 Deaf Nation があるなら、どうして盲者の国 Blind Nation が必要ないわけがあろう、視覚偏重主義の圧制と闘うための。どうしてデブの国 Fat Nationが必要でないわけがあろう、健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して。どうして愚か者の国 Stupid Nation が必要でないわけがあろう、アカデミックな圧力に残忍に抑圧された者たちの。……(ジジェク, LESS THAN NOTHING, 2012 私訳)
…………
※付記
わたくしは同意があれば(基本的には)あらゆる倒錯行為は許されるという立場である。だが、現在の性的超寛容社会において社会全体としては大きな混乱が生まれているだろうことは、以下のラカン派臨床家が言う通りだろうと考えている。
セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の違反に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である(それだけが残存する唯一の倒錯形式ではないにしろ)。実際、25年前の神経症社会と比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。
この変貌の下で、我々は性的な楽しみの大いなる増加を期待した。それは「自然な」セクシャリティと「自然な」ジェンダーアイデンティティの高揚の組み合わせによって、である。その意味は、文化的かつ宗教的制約に邪魔されない性の横溢だ。ところがその代わりに、我々は全く異なった何かに直面している。もっとも、個人のレヴェルでは、性的楽しみの増大はたぶんある。それにもかかわらず、より大きな規模では、抑鬱性の社会に直面している。さらに、ジェンダーアイデンティティの問題は今ほど混乱したことはなかった。 (ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、私訳 PDF)