この村に生まれた者は、死ねば魂になって谷間からでも「在」からでもグルグル旋回して登って、それから森の高みに定められた自分の樹木の根方におちついてすごすといわれておりましょう? そもそもが森の高みにおった魂が、ムササビのように滑空して、赤んぼうの身体に入ったともいいましょうが? (大江健三郎『M/T と森のフシギの物語』)
戦争末期の僕のジレンマのもうひとつは、南方でーーしかもレイテ島で、と具体的に土地の名が思い浮かぶこともあったーー自分が戦死しての、魂の帰り道という問題であった。谷間の人間であれ「在」の人間であれ、肉体が死ねば、魂は躰をぬけて空中に浮び上り、旋回して、それも螺旋状にしだいに高みに昇って、それから森の、以前から自分のための木ときまっている樹木の根方に着地して、ずっととどまることになる。お伽話のようにそう聞いて育ったが、船で送られトラックで移動して、集団で行軍したあげくジャングルで戦死してしまえば、ひとりぽっちの魂になって、さて遠い道のりをこの日本の四国の森の奥の谷間まで、どう戻りつくことができるのか。(……)
――本当に魂が森に昇るのなら、谷間からでも「在」からでも、東京からでも長崎からでも、おなじじゃないのかな? 鮭は孵化した川に戻ってくるというが、魂には魂の本能のようなものがあるのやないか? 南方で死んだ人間の躰から離れた魂は、サーッと東に行ったり、まさサーッと西に行ったりして、迷うことがあるにしても、いつかは森に帰って来ているやろう。もう死んで魂になっておるのやから、永い年月かあkっても同じやが! 谷間や「在」から森に昇るより、魂になって海の上を飛行して帰って来る道すじの方が面白いと思うよ。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)
ところで、2001年には次のように語っているそうだ。
「ふるさとにもどりますか」という問いに「母のない今私にはふるさとはありません」と(大江健三郎、すばる編集部、『大江健三郎再発見』、2001年、pdf)