浅田)大江健三郎は、文学には言葉の壁があるのに対し、息子の音楽は世界中の人に即座に伝わるって言うんだけれど、それは逆でしょう。
柄谷)音楽はまた別の言語であって、評価はもっと厳しいよ。
浅田)音楽の中でみれば、あれはハンディキャップを背負ったアマチュアの心温まる達成ではあるけれど……。
柄谷)しかし、プロの作品ではない。
坂本)評価できない。
浅田)その点、大江健三郎の小説は、どんな翻訳であれ、普遍性をもった本物の作品だよ。
柄谷)本人がそう思うべきだ(笑)。
坂本)本人は痛いほどわかっているはずだけど。
浅田)でも、そういうことがわからずに、徹底してずれているのが、大江健三郎の才能かもしれない。……
(「「悪い年」を超えて」坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会 『批評空間』1996Ⅱ-9)
それは、大江光のチェロとピアノのための「お話-A Talk」であり、マルタ・アルゲリッチとロストロポーヴィチの共演(1995年の小澤征爾のバースデイ・コンサート)にて聴いた。そして「惚れ惚れ」した。この小澤の還暦祝いのコンサートはビデオに録画して何度もくり返して鑑賞したのでとても印象に残っているが、いまはビデオが劣化してしまって観ることはできない。
この「お話-A Talk」という作品は、ネット上を探しても見当たらない。
いまは別の作品を貼付しておく。
◆大江 光 هيكاري اوية Hikari Oe
ーー美しいが、シンプルすぎる。血がにじんでいない、ということは言えるかもしれないが、アルゲリッチやロストロポーヴィチのような至高の息づかいをもつ演奏家が演奏すれば、ひどく美しくきこえてくる、ということはありうると思う。
粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(……)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。(プルース『ジャン・サントゥイユ』「粗悪音楽礼賛」)
いやいやけっして粗悪な音楽であるなどというつもりはない。だがアルゲリッチとロストロポーヴィチの共演で聴いた大江光はかぎりなく美しかった、ということがいいたいだけである。
ところで、大江光の作品は、坂本龍一のたとえば次のような作品とどう違うんだろうか?
ところで、大江光の作品は、坂本龍一のたとえば次のような作品とどう違うんだろうか?
◆Ryuichi Sakamoto-Energy Flow
わたくしにはあまり変わりばえのしない印象をうけるが、これはわたくしの音楽の基礎的素養のなさのせいかもしれない。
…………
大江健三郎は「小説」である『取り替え子』にて、次のように記している。
アカリさんのCDは、それが美しいと口にする必要もないことだが、と一種の欠語法を用いて主題を示してからーーいま考えてみると、CDの評価について言質をとられぬように、という慎重さだったのかも知れないーー、最近ニューヨークに本拠を置く日本人の作曲家兼俳優が、ポリティカル・コレクトネスで知的障害者の音楽を押し通されちゃたまらない、と最先端の文化英雄相手に話していたが、とさらにも含みのありそうな言い方をするのだ。(大江健三郎『取り替え子』2000)
そして浅田彰は『取り替え子』の書評で次のように記している。
……私はそのとき坂本龍一と話したこと(重い障害をもつ子どもを立派な大人にまで育て上げたことはパーソナルには素晴らしいことで感嘆に値するものの、そのこととアーティスティックな評価は別であり、大江光の音楽はあきらかに大江健三郎の文学のような普遍性を持たない)をまったく撤回する気はないが、それに対する大江健三郎の怒りを理解し、尊敬しさえする。驚くべきことは、時として正当な、だが時として被害妄想に傾く場合もある、いずれにせよ個人的なレヴェルでの生々しい怒りと悲しみから出発しながら、この小説が見事な普遍性をもった作品として立ち上がってくることだ。(浅田彰【大江健三郎「取り替え子」】)
わたくしは『取り替え子』とともに、大江健三郎の『燃え上がる緑の木』三部作を好んで読むが、今読み返すと、たとえば次のような記述はやや傷になっているという感がしないでもない。
テーブルに挨拶に来て、悪天候を自分の落ち度のように嘆いた女主人が、テーブルのDATに眼をつけて、このホテルを常宿にするマエストロたちがーーそこには泉さんの離婚した夫である名高い日本人指揮者もふくまれていて、かれのネームプレートをつけた椅子が食堂にあったーーこぞって日本の録音機を評価している、と話した。そこで思い立ったように、女主人がフロントから持って来たのが、ヒカリさんのCD!
もともと、総領事に当のHotel Kobenzlを紹介したのがK伯父さんなのである。一昨年、ヒカリさんが永らく作曲してきた小さな曲を集めて、ピアノとフルートのCDが出ていた。それを記念して、ちょうど一年前、K伯父さんの一家はザルツブルグに旅行し、このホテルに滞在した。たまたまヒカリさんの誕生日を祝うファックスが絵入りで届き、それを見た女主人がお祝いの贈り物をくれた。お返しに手渡したCDを聴いて彼女は感動した。
女主人はそのいきさつを総領事に語り、――私ハ小サナほてる経営者ノ娘ニ生マレタガ、コノ伝統アルほてるノ一族ノ夫ト結婚シ、子供タチヲ後継者ニ育テアゲモシタ。ソレハ父ノぽじてぃう゛ナ生キ方ヲスルヨウニ、トイウ教エニシタガッテノコトダッタ。アノ障害ヲ持ッタ青年トソノ両親ヲ見テ、マタソノ音楽ヲ聴イテ、ソレコソぽじてぃう゛ナ生キ方ヲ伐リ拓イテイルト共感シタ、と話した。(『燃え上がる緑の木』第二部、PP195-196)
いやひょっとしてこれが神や魂のことをめぐって書き綴られるこの小説の「裂目」として効果を生んでいるのかもしれないとは疑うべきかもしれない。
私は、この国で恩寵という言葉の通俗的な使われ方に、疑問を持ってきたんだよ。(……)
身近なだけ、気になる例をあげればね、このところザッカリーがよく弾いている、ヒカリさんのピアノ曲集に、自費出版ということで気軽だったのか、K伯父さんがこういいうことを書いているだろう? 《僕は信仰を持たない人間ですが、恩寵ということを音楽に見出すといわずにはいられません。この言葉を、品の良さ(グレイス)とも美質(グレイス)とも、感謝の祈り(グレイス)ともとらえたい思いで、僕はヒカリの音楽とその背後にある現世の自分たちを超えたものに耳を澄ませているのです。》
私が厭なのは、K伯父さんの言葉遊びのような展開なんだね。実体を摑めないでいて、言葉で手探りするだけで、どの程度深いことが表現できるんだろう? それも恩寵というような大きい課題について。
ーーK伯父さんは言葉を書くことで生きている人なんだから、言葉をつうじて手探りするのはむしろ自然なんじゃないの? 私はこれを読んで、ヒカリさんの音楽には確かに恩寵があると了解したわ。
――もし、ヒカリさんの音楽に恩寵があるとすれば、とギー兄さんは、すでによく考えていることを示して固執した。それが意味しているのは、ヒカリさんが神によって創られたことと、ヒカリさんが神を知っていることのふたつでなければならないよ。ところがね、K伯父さんはそのことも、やはり信仰の外側から憶測するだけじゃないだろうか?
K伯父さんがCD発売についてヒカリさんと一緒に新聞写真に写っているのは恥かしいとか、花田が攻撃する。そのやられ方について、私もK伯父さんは災難だと思うよ。しかし、ヒカリさんの精神的な遅れが、K伯父さんに自分と神との関係について突きつめることをさせないで、猶予期間をあたえてきたということは、やはりあると思うよ。(同上、PP.291-291)