われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。(プルースト「逃げさる女」)
もちろんわれわれは小便器のなかにも、ロダンの「パンセ」のなかに発見するのとおなじほど貴重な何ものか発見をすることがある。
(デュシャン、泉) |
或るところでは光はゆるやかに流れているかと思うと、或るところでは滝のように落ちており、あるいは浅く、あるいは深く、あるいは鏡のように輝くかと思えば、またにぶく淀んでいる、--きわめて変化に富んだ傾斜を持つ一種独特なこの表面によって、そういうふうに光が動きを余儀なくさせられるのです。こういう作品の一つにふれる光は、もはやただの光でいることができません、もはや偶然の方向を持つことはできないのです。物が光を所有することになり、自分のもののように使うことになるのです。》
実際そこには、リュクサンブール美術館にある『思い』とよばれる、あの石塊の上のうつむいた顔のように、自分自身の光を持った石があります。この顔は影になるまで前に傾いて、石の白い微光の上にささえられていますが、この石の輝きのために影は融け去り、一種の透明なうすら明かりへと移って行くのです。(リルケ『ロダン』高安国世訳)
対象から発するアウラは、対象の直接的な特性ではなく、それが占める場である。この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器ーー小便器自体が展示されることによってアートの対象となったーーである。
デュシャンの成果は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「 ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」ということである。
日常生活において、われわれはこの種の物象化の犠牲者である。つまり、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認してしまう。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)
さらに言えば、芸術作品の領域だけではなく、たとえば小便器のような「批評家」や「作家」の発言を、単にその書き手がーーなにかの偶然か狡猾な策略で--過剰に高い評価のポジションに置かれているのに惑わされて、パスカルの『パンセ』と同じぐらい貴重なものとして扱ってしまっている場合がある事にくれぐれも注意しなければならない。
批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっている(プルースト『見出された時』)
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)