2017年12月10日日曜日

女性の享楽と身体の出来事

ラカン概念の「女性の享楽」は(一部で)神秘的に語られすぎていように思える。ここでは、この概念の脱神秘化のための資料のいくつかをーー長くなり過ぎないようにできるだけ簡潔にーー掲げる。

 まず晩年のラカンの身体の出来事という表現のある文を示す。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》  (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

ラカンはこの症状(サントーム)を、「他の身体の症状 symptôme d'un autre corps」、「ひとりの女 Une femme」とも表現している。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas ーーほとんど無名だろうーーは、次のように記している。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF

⋯⋯⋯⋯

さてここから、本題である女性の享楽、--ジャック=アラン・ミレールによってようやく最近になって明瞭に注釈されるようになった「女性の享楽 jouissance féminine」をめぐる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

「トラウマ」あるいは「固着」という用語が出てきているように、実際はフロイトにすでにある。

たとえば次の文には、出来事、固着という用語が出てきているように直接的にラカン概念「女性の享楽」にかかわる、とわたくしは思う。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917

⋯⋯⋯⋯

つぎにフロイトによる「トラウマ」(そして異物)をめぐる記述をいくらか抜き出す。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この「異物 Fremdkörper」の仏訳は「corps étranger」(異物、異者)であり。 晩年のラカンの《我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger》(S23)に相当する(参照:女とは「異者としての身体」のこと)。

⋯⋯⋯⋯

次に固着である。この固着とは事実上、原固着のことであり、原抑圧のことである。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)
もちろん人間はだれでもすべての可能な防衛機制 Mechanismen nicht aufgelassen を利用するわけではなく、それらの中のいくつかを選ぶのであるが、その選ばれた防衛機制は、自我の中に固着 fixierenし、その性格の規則的反応様式 regelmäßige Reaktionsweisenとなって、その人の生涯を通じて、幼児期の最初の困難な状況に類似した状況が再現されるたびに反復される。かくしてそれは幼児症 Infantilismenとなり、有効期間を超えてもなおあとまで残ろうとする社会制度と同じ運命を分かつものとなるのである。詩人の嘆くように、「道理は不合理となり、博愛は苛責になる Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage」のである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

原抑圧とほぼ等価なものとして、フロイトは次の語彙群を使用してもきた。

・夢の臍 Nabel des Traums
・菌糸体 mycelium、
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe
・リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung
・欲動の根 Triebwurzel


原抑圧(固着)にかかわる表現として、ラカンにも種々の表現の仕方があるが(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)、ここでは「欲動の現実界」のみを掲げる。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトが言った)「夢の臍 Nabel des Traums」 を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この穴 trou は「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」とも呼ばれる(ラカン、S21、19 Février 1974 )

⋯⋯⋯⋯

以上、女性の享楽は(基本的には)解剖学的女性とは関係がない。

なによりもまず身体の享楽、これが女性の享楽である。

非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)
ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

上にある、女性の享楽に相当するファルス享楽の彼岸の「他の享楽」は、現代ラカン派では「自ら享楽する身体 le corps qui se jouit」 ともされる。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )

この話す身体 le corps parlant が、自ら享楽する身体である。


言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、(自ら)享楽する身体corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

上に「女性の享楽は(基本的には)解剖学的女性とは関係がない」としたが、実際のところファルス秩序(象徴的法、言語の法)に囚われているのは、解剖学的男性のほうが解剖学的女性よりも多い、とはいえる(父の法への服従)。もし「女性」というシニフィアンがなんらかの意味合いをもつならそこにある。


ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。

⋯⋯⋯⋯

※付記

わたくしはアルトーをほとんど読んだことがないので、ここでは憶測として記すが、《私の内部の夜の身体を拡張することdilater le corps de ma nuit interne》とするアルトー、あるいは「身体なき処女」「性なき処女」を語るアルトーは、あきらかに女性の享楽の人であるだろう。


女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(『存在の新たなる啓示』)

事実、ラカン派(ミレール派)のPierre-Gilles Guéguenは、次のように語っている。

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

これを読めばアルトーの 「グロソラリ(舌語)」を想起せざるをえない。

ーーララング(母の言葉、母の舌語)とともに語られることの多い女性の享楽だが、それは「ララングという母の言霊」を見よ。

かつまた Pierre-Gilles Guéguen は次のようにも言う。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

自閉症的享楽、これが「自ら享楽する身体」である。

なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps の表現、変形であり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである--ラカンは、aを、フロイトのもの das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである--、他方、欲望は大他者と関係する le désir est relation à l'Autre。それゆえ、享楽と欲望とのあいだには二律背反 antinomie 、裂目 béance がある。享楽は、簡単に言ってしまえば、場処としてcomme lieu、己れ固有の身体 le corps propreであるが、欲望は大他者との関係を結んでいる。このような腑分けはまた、10年後、セミネール「アンコール」で大きな展開を見ることとなる。(J.-A. Miller, Introduction à la lecture du Séminaire L'angoise de Jacques Lacan, 2005 )

 上にみたように身体の享楽=女性の享楽であり、女性の享楽とは、自ら享楽する身体を表現する。だがなぜ自ら享楽するのか。

それはトラウマ的な純粋な身体の出来事のせいだ、というのが現代主流ラカン派の解釈である、《女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps》 (ジャック=アラン・ミレール 、Cours L'Être et l'Un 2011)