2018年2月13日火曜日

世界は女たちのものである

世界は女たちのものである。
つまり死に属している。

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世界は女たちのものだ、いるのは女だけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える。彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない。彼女たちはそれを感じ、それを予感する…(ソレルス『女たち』)

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いやあキミ! 当たり前だよ、恐いのは。

女性器 weiblichen Genitales を見たさいの去勢恐怖 Kastrationsschreck は、いかなる男性もこれを免れることはない。(フロイト『フェティシズムFetischismus 』1927年)

「去勢恐怖」概念は、 前回記したようにいささかの保留はあるがね、

この去勢恐怖を原母による原去勢恐怖としたらなんの問題もなくなる、

フロイトの新たな洞察を要約する鍵となる三つの概念、「原抑圧 Urverdrängung」「原幻想 Urphantasien(原光景 Urszene)」「原父 Urvater」。

だがこの系列(セリー)は不完全であり、その遺漏は彼に袋小路をもたらした。この系列は、二つの用語を補うことにより完成する。「原去勢 Urkastration」と「原母 Urmutter」である。

フロイトは最後の諸論文にて、躊躇しつつこの歩みを進めた。「原母」は『モーセと一神教 』(1938)にて暗示的な形式化がなされている(「偉大な母なる神 große Muttergotthei」)。「原去勢」は、『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang』 (1938)にて、形式化の瀬戸際に至っている。「原女主人 Urherrin」としての死が、最後の仕上げを妨げた。(ポール・バーハウ1999, Paul Verhaeghe, Does the Woman exist?)

男は最初に女性器をみたときは、こんな顔してんのさ、
すくなくとも心のなかの顔はね。




メドゥーサの首は女性器の描写を代替している…ラブレーの書においても、女にヴァギナギを見せつけられた悪魔は退散している。(フロイト『メドゥーサの首 Kopf der Medusa』草稿、死後出版)


わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin」を謳ったニーチェだって、未発表の遺稿にこうある。

「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」(ニーチェ、[Winter 1884 — 85]


そもそも、ボクのブログはこれをめぐって反復してるだけだよ。

ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………(カーミル・パーリア『性のペルソナ』)

ーーこの「真のフェミニスト」カーミル・パーリアの言ってることに肯かないヤツってのはよっぽどニブイんじゃないだろうか?

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽という本源的状態を再創造しようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスとタナトスの混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

ーー「享楽の原初の状態」とあるが、これは究極の享楽であり至高のエロスのこと。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

で、《死は享楽の最後の形態である》(ポール・バーハウ2006)

ーー参照:「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである

死への道……それはマゾヒズムをめぐる言説である……死への道は享楽と呼ばれるものにほかならない Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance.(ラカン、S17、26 Novembre 1969)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

あのブラックホール、世界の起源、世界の夜、 ーー巨根で名高い芥川龍之介だって《外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである》としているーー、あの「黒洞」はトテツモナク怖いけれど、カーミル・パーリアが記しているように《男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘い》なんだから、若いうちはすくなくとも徹底的に戦わなくちゃな、

しかし当時のぼくの生活はとても波乱に満ちたものだった…ほんとうにめちゃくちゃだった…放蕩? そのとおり! ひっきりなしだ…午後、夕方、夜…同時に、三、四人との関係、行きずり、娼婦、なんでもござれ、乱れた暮らし…信じられないくらいの無頓着、やりたい放題やったのだから悔いはない…バー…いくつかの特別の施設…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

荒木経惟だってなんとかあの恐怖から逃れようとして、種々の工夫をしている。





つぎのなんかは、鰐にはワニをってヤツだよ




あの「母の役割 le rôle de la mère。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。⋯⋯

それは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である(ラカン、S17, 11 Mars 1970)