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2018年2月12日月曜日

同性愛防衛としてのフェティシズム

母への愛に忠実な同性愛者」から引き続く。

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フェティシズムは同性愛に対する防衛である。Le fétichisme c'est une défense contre l'homosexualité. (ラカン、 S4, 30 Janvier 1957)

ーーこの文はフロイトに依拠しつつ語られている。ここでラカンが言いたいのは、男はフェティシストになることにより、同性愛への傾斜の歯止めがかかるということである。

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まずフロイトの考え方のおける基本的なフェティッシュをおさらいしよう。

フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter)(フロイト『フェティシズム』1927年)


(ドガ、朝の風呂 Bain du Matin)



足は、不当にも欠けている女性のペニスの代理物である。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes.

足フェティシズム Fußfetischismus の多くの事例において、本来は性器に向けられていた視姦欲動 Schautriebは、その対象に下から近づこうとするのだが、禁止と抑圧によって、道半ばで押しとどめられる。この理由で、足や靴にフェティッシュが付着する Fuß oder Schuh als Fetisch festhielt。女性器は、幼児の期待に応じて、男のようなものとして表象されるのである。Das weibliche Genitale wurde dabei, der infantilen Erwartung entsprechend, als ein männliches vorgestellt.. (フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)

ラカン的には、 《フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. 》(Lacan, S10、16 janvier l963)である。


さて、以下の文に「同性愛者への道に対する防衛としてのフェティッシュ」という意味合いの、フロイトの考え方があらわれる。文脈上、その前段もふくめて引用する。


【フェティシストの女陰嫌悪】
…表象の運命と情動 Affekts の運命をより明確に切り離し、「抑圧 Verdrängung」は情動のほうにとっておくつもりなら、表象の運命には、「否認 Verleugnung」が正しいドイツ語の表現になるだろう。…

われわれの言っている状態は、知覚 Wahrnehmung は残存しながら、その否認 Verleugnung を固持しようとする、きわめて精力的な行動が企てられているというものである。小児が女性を観察した後も、女性のファルス Phallus des Weibes という信念を変えることなく保持している、というのは正しくない。小児はその信念を守りつづけているのだが、断念(止揚 aufgegeben)もしているのである。

望まれざる知覚 unerwünschten Wahrnehmung の重みと反対願望 Gegenwunsches の強さとの葛藤のなかで、小児は、無意識的思考法則ーー「一次過程 Primärvorgänge」--の支配のもとでのみ可能な一つの妥協にいたりつく。とにかく女性は、心的なもののなかでは、依然としてペニス Penis を所有しているのだが、このペニスはもはや以前のそれではない。他のものがこれにとってかわっており、いわばその代理に任ぜられ、今はかつてのペニスに向かっていた関心の後継者となっているのである。

この関心はだがなおも異常に高められる。これは、去勢の恐怖 Abscheu vor der Kastration がこの代理物を作りだしたとき、一つの遺物 Denkmal を置いたからである。かつて行われた抑圧(放逐 Verdrängung)の消しがたい烙印 Stigma として、実際の女性器 weibliche Genitale に対する嫌悪(疎外 Entfremdung) もまた残る。これは、どのフェティシストにも、かならず見られるものである。(フロイト『フェティシズムFetischismus 』1927年)

ラカンは、この女性器にたいする嫌悪をめぐって、「ブラックホール」という表現をしている。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)

ようするに原抑圧(原固着)にかかわるS(Ⱥ)の引力がブラックホールと呼ばれる。引力とは、エロスにかかわる語彙である(フロイトの《引力と斥力 Anziehung und Abstossung 》(エロス/タナトス)については、「「分離タナトス」と「循環タナトス」」を見よ)。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?)

※S(Ⱥ) をめぐっては、いままで繰り返してきたので詳細は省く。いくらかの参照としては、まず「ララング定義集」を見よ。

とはいえフロイトの「女性器 weibliche Genitale に対する嫌悪(疎外 Entfremdung) 」という表現をナイーヴにとってはならないことだけは特記しておこう。すくなくとも男性は女陰を憎むことを愛する。あるいは女陰を愛することを憎む、という風に読まねばならない。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳ーー「愛の起源は腹が減ったである」)

さらにまた去勢の恐怖をめぐっては、それはフロイトが強調するような原初的なものではなく、二次的な不安であり、原不安は別にあるという解釈がバーハウによってなされている( Paul Verhaeghe、2009)。

ここでは引用せずに簡潔に要約しよう。

原母子関係では、まず分離不安がある(母胎内にあると想定される始原のエロスの喪失にかかわる)。ようは出生直後からの母の出現-消滅への苛立ち。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

次に母の過剰現前不安(融合不安)がありうる。フロイトの母に貪り喰われる不安(ラカンの母なる鰐の口)。

母親への依存性 Mutterabhängigkeitにおいて…驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen?)というのは、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト「女性の性愛」1931年)
あの「母の役割 le rôle de la mère。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。⋯⋯

それは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


このふたつの原不安が人間の基盤であり、英語圏の代表的論者のひとりであるベルギーのラカン派臨床家バーハウの解釈では、フロイトの去勢の恐怖の彼岸にこの原初の不安があるとされおり、わたくしはこの見解をとる立場である。

さて冒頭のラカン文の起源はフロイトの次の文にある。


【同性愛者への道に対する防衛としてのフェティッシュ】
それでは、フェティッシュは何をするのか、そして何によって保持されているのかを概観しよう。フェティッシュは、去勢の脅威 Kastrationsdrohung に対する勝利のしるしであり、また、防御であり続ける。かつまた女性が性的対象 Sexualobjekt となるような性格をあたえることによって、フェティシストを同性愛者になることから守っている。 erspart es dem Fetischisten auch, ein Homosexueller zu werden

フェティシストは、後々の生活においても、さらに他の利点として、性器代理物Genitalersatzesが非常に役立っていると感じている。フェティッシュは、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否 verweigert されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足 sexuelle Befriedigung は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、フェティッシュにとってはぜんぜん気にもならないのである。

おそらく、女性器 weiblichen Genitales を見たさいの去勢恐怖 Kastrationsschreck は、いかなる男性もこれを免れることはない。だがなぜ、ある者はその印象から同性愛者となり、またある者は一つのフェティッシュをつくって防衛 abwehren し、そして他の大多数の者はこれを克服してしまうのか、これをどう説明すべきか、我々にはむろん分かっていない。…(フロイト『フェティシズムFetischismus 』1927年)


(Gustave Courbet、L'Origine du monde)


1910年のフロイトをも付け加えておこう。


【心因性インポテンツ、女嫌い、同性愛】
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、エロス的欲動活動 erotische Triebbetätigungとしてある激しい視姦欲 intensive Schaulust が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親 Mutter から発したエロス的魅力 erotische Anziehung はやがて、やはりペニス Penis だと思われている母の性器 Genitale を見たいという渇望 Sehnsuchtにおいて頂点に達する。

ところが後になって女はペニスをもっていない das Weib keinen Penis besitzt ことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心因性インポテンツ psychischen Impotenz、女嫌い Misogynie、永続的同性愛 dauernden Homosexualität などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニス Penis des Weibes への固着 Fixierung は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求 infantiler Sexualforschung のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝 fetischartige Verehrung は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代理象徴 Ersatzsymbol としているようにみえる。「女の毛髪を切る変態者 Zopfabschneider」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

ボクの原光景


倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

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だが、ここで「とはいえ」と続くのだが、それについては記述が長くなるので、ここではいくらかの文を引用しておくだけにする。

《母のペニスの欠如は、ファルスの特性が現われる場所である[… ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus]》(Lacan, E877)。われわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその特性を識別するものである。

そしてここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更新すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女におけるペニスの欠如ではない(…)。そうではなく、この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

現前/不在とは、出現‐消滅であもある。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

この、フェティッシュにかわるだろう、「出現ー消滅 apparition-disparition」とは、すくなくともラカンの「極小の偏差(裂け目) très faible écart」や「純粋差異 différence pure」、あるいはドゥルーズの「純粋の差異 pure différence」・「内的差異 différence interne」・ 「差異の差異化 le différenciant de la différence」・「究極の絶対的差異 différence ultime absolue」、プルーストの「質的差異 différence qualitative」等々とともに読まなければならない(参照)。

究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異 différence qualitative、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》(プルースト)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

ここまで引用してきた、たとえばラカン曰くの《フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である》(セミネール10)等々は、この出現‐消滅、絶対的な内的差異の文脈で読むと、われわれはどんなメカニズムで欲望するのか、がいくらか明瞭になってくるのではないだろうか。

たとえば下着フェチ、パンストフェチ、陰毛フェチ、足フェチ等々と呼ばれるものの対象は、(究極的には)下着、パンスト、陰毛、足自体ではないのだ。核心はそれらがもたらす「出現‐消滅」の感覚である。




いくらたぐい稀なる美女の恋人や妻をもっていても、つねに「出現」していたら魅力は喪失してしまう。巷間の平凡な女たちの「出現‐消滅の演出」にーーとくに無意識的な演出にーーどうしようもなく魅惑されてしまうのが(大半の)男性という種族の特性ではなかろうか・・・





この意味で、日本のおいてコトサラ跳梁跋扈してイタダケテイル「歩く隠蔽記憶」とは、歩くフェティッシュである。

最初のフェティッシュの発生 Auftreten des Fetischの記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期が存在している。フェティッシュは、隠蔽記憶 Deckerinnerung のように、この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag である。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1920年注)



欲望は…換喩 métonymieの軌道 railsに囚われている。欲望は永遠に何か別のものへに欲望に向かって拡がっていく éternellement tendus vers le désir d'autre chose。したがって、象徴示的連鎖宙吊り suspension de la chaîne signifiante のまさその点における「倒錯的」固着 fixation、そこにおいて隠蔽記憶(スクリーンメモリー le souvenir-écran)は不動化 immobilise され、フェティッシュの魅惑的映像 image fascinante du fétiche が凍りつく statufie。 (ラカン、エクリ、p518)

魅惑されない種族の男性とは、父の版の倒錯である。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)
エディプス・コンプレックス自体、症状である(あるいは「フロイトの夢」 « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD、ラカンS17)。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

※より詳しくは、 「人はみな穴埋めする」を参照。

ようするに、女たちによる出現‐消滅の演出に魅惑されない(あるいはそのフリをしている)彼らは、父の法の眼差しに怯えてその囚人になっている哀れな善人たちである。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)

ーーもっとも分裂病圏域あるいは自閉症圏域という別の例外の種族はありうるかもしれない(自閉症的享楽、分裂病的享楽をめぐる参照は、まず「ララング定義集」をみよ)。

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倒錯先進国での日本における、少女たちの早い時期からの出現‐消滅の演出にすこぶる敬意を表するものではあるが、いささかマンネリ気味ではある。この一月に還暦をむかえた残り少ないわたくしの生の唯一の願いは、新しい「歩くフェティッシュ」を近未来に発明していただけないものだろうか、というものである・・・




フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)