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2018年2月27日火曜日

ウンザリさせられるあの女

ゴダールとアンナ・カリーナ」に引き続く。またしても熱烈なゴダールファンにはオコラレルだろう、頓珍漢でテキトウなことを記すことにする。

⋯⋯⋯⋯

ゴダールが愛した女、アンナ・カリーナ Anna Karina は、たしかにときに途轍もなく美しい表情をみせる女である。




扉があいて、先の女が夏の光を負って立った。縁の広い白い帽子を目深にかぶっているのが、気の振れたしるしと見えた。(古井由吉『山躁賦』杉を訪ねて)

キチガイ女の気配がある。

「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 (コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )



ああ、なんていい女なんだ!

そう、アンナ・カリーナは、風にさからって逆向きに回転する風車のような女であり、瞬間瞬間の表情は忘れがたい。

たしかにゴダールのいうごとく、『海外特派員』の「ジョエル・マークリーがオランダに何をしにいったか」を忘れてしまった人も、あの風にさからって逆向きに回転する「風車のことは…… 覚えている」かもしれない。(蓮實重彦「ゴダールの「孤独」――『映画史』における「決算」の身振りをめぐって」 2002年)




他方、彼女の仕草はときにひどくウンザリさせられる。なんだこの女! 若くウブな青年はそう感じたものだ。あれは猫のような女だ。《女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る》(メリメ『カルメン』ーー「母は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る」)




幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)




ゴダールは後にこう言っている。

私とアンナ・カリーナが別れたのは、結局は私の多くの欠点のためですが、でも私には、その最大の原因がなんだったかはわかっています。私には彼女と一緒に映画のことを話すことができなかったからなのです。(『ゴダール映画史(全)』)

だがそもそも「真に」映画のことを話すことができないのは、最初から知っていたはずである。ゴダールもたしか言っていたように、彼女の本質はミュージカル女優である。アンナ・カリーナと別れたあとの再婚相手、モーリアックを祖父にもつロシア亡命貴族のインテリ娘アンヌ・ヴィアゼムスキー(Anne Wiazemsky)でさえ物足りなかったはずである。結局、ヴィアゼムスキーと別れた後の生涯の伴侶アンヌ=マリー・ミエヴィル(Anne-Marie Miéville)がようやく映画を語るにふさわしい女であった筈。

きっとゴダールは結婚後、消え失せてゆくあのアガルマ、すなわちアンナ・カリーナのなかにあってアンナ自身のもの、対象a をなんとか映画のなかで復活させようとしたのだ。

(Une femme est une femme,1961)


だがあのアガルマの復活は、結婚生活を続けるかぎり、ムリだということがおそらく1965年前後にわかったのではなかろうか。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)



とはいえ、ああいった猫に遭遇したら、後先のことは考えずに、どうしようもなく飛んでゆきたくなるタイプの男が世界には常にあまたと存在し続けるだろう。



アリアドネは、アニマ、魂である。 Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)



愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

このダンスの映像ってのは、なんども見てると切なくなってくるよ

Bande à part (1964)