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2018年4月3日火曜日

明るさの淵


(大倉摩矢子『明るさの淵』)

いやあ、とってもいいな、大倉魔矢子さん。この箇所だけではなく最初からとってもいい(ボクの好みはこの箇所までで、あとはすこしバタバタしすぎている感を抱くが)。

「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂い folle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 (コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

そう、場なき謎の「他の享楽」の気配がふんだんにある。

ファルス享楽 jouissance phallique [JΦ] とは身体外 hors corps のものである。 (ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre [JA] とは、言語外hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ひさしぶりに、芦川羊子ーー 土方巽、1973の映像を見返しちゃったよ




◆「ヒステリー者の身体ー女性の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、Florencia Farìas、2010,PDF

話す身体の神秘 Le mystère du corps parlant…これは、ヒステリーの神秘 mystère de l'hystérie を表しもするし、女性の享楽 jouissance féminine(他の享楽)の神秘を表しもする。身体は両方を含んでいる。

ではどちらの身体? 精神分析家を関心づけるのはどちらの身体だろうか?

フロイトはその仕事の最初から、無意識は身体に影響を与えると強調した。だから、私たちが身体について話すとき、生まれながらに授けられた有機体を指してはいない。私たちは生物学的有機体としての身体と主体としての身体を区別しなくてはならない。

私たちは知っている。言語の効果のひとつは、主体から身体の分離することなのを。この主体と身体とのあいだの切断・分離の効果は、唯一、言語の介入によって可能である。つまり身体は構築されなければならない。人は身体と一緒に生まれてこない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。身体は言葉の効果である。

鏡像段階の研究を通して、ラカンが明らかにしたことを心にとめておこう。主体は、全的な統合された身体としての自己自身を認知するために他者が必要である。唯一、他者のイメージとの同一化を通してのみ、幼児は自身の身体のイメージを獲得する。けれども、言語の構造へのアクセス--つまり象徴秩序へのアクセスーーがイマジネールな同一化の必要条件である。したがって身体イメージの構成は、象徴界からやって来る効果である。(⋯⋯)
ヒステリー的女は、身体のイメージによって、彼女自身を女性 femme と見なそうと企てる。彼女はそのイメージにて、女性性 féminité の問いを解決しようとする。これは、女性性の場にある「名付け得ないものを名付けようとする nommer l'innommable」やり方である。彼女の女性性は、彼女にとって異者 étrangère なので、自分の身体によって、彼女は何なのかの秘密を握っている「他者なる女 l'Autre femme」の神秘を崇める。つまり、彼女は、「他の女 une autre femme」・「リアルな他者 un autre réel 」を通して、彼女は何なのかの問いへ身体を供えようとする。

ヒステリーからの女性性への道のりには、いくつかの事が残されている。症状・不平不満・苦痛・過酷な或は不在の母・理想化された或は不能の父・享楽である。享楽はときに子供をファルスの場に置く。女性の全身体マイナス母は、他者が必要である。それは分析の間に起こる。現実界のなかの介入は、分析家の現前を通して、当享楽の減算 soustraction を作動する。もっとも時にヒステリーと女性性は、両方を巻き込んだ或る複合によって統合されて現れるが、分析の進路においてこの二つの相違が瞭然となる。

ヒステリー的女が、彼女の身体的症状を通して、私たちに教えてくれるのは何か? ヒステリーの身体は、主体としてのその単独性に加えて、その受難・その転換(症状)を通して、話す。身体の象形文字は、ヒステリーの症候学においての核心であるソマティック(流動する身体)の機制に私たちを導く。ソマティックな症状は、現実界と言語とのあいだの境界点に位置づけられる。全ての「ヒステリー的作用 opération hystérique」は、症状の身体を封筒(覆い enveloppe)のなかへ滑り込ませることによって構成されている。
私たちは言いうる、ヒステリーは身体のなかの身体を再発明する réinvente un corps dans le corps、あたかも肉体 anatomie が存在しないかのように進みつつ、と。しかしヒステリーは肉体といかに戯れるか、そして大胆な身体的地理学 audace géographie corporelle を設置する症状をいかに奨励するかを知っている故に、症状の欲求に応じるイマジネールな肉体がある。歴史(ヒストリー≒ヒステリー)は身体的症状のなかに刻印される。純粋なヒステリーの目的は、リアルな身体 corps réel を作ることである。この身体、「症状の出来事 événement du symptôme」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010)