前回掲げた、自ら享楽する身体としての「他の享楽(女性の享楽)」とは、「身体の享楽」のことであり、現代ラカン派では、自閉症的享楽とされる。
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)
ーーラカン派でいう「自閉症」は、現代増大している「自閉症」とはあまり関係がないことに注意しなければならない。《自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet》 (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdfーー「自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである」)
私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2012,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDFーー製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」)
ここでいったんラカン派から離れて、中井久夫を引用してみよう。
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』)
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 )
《自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感》、《「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができる》とあるが、これはニーチェ的にいえば「世界の概念化」である。
なおわれわれは、概念 Begriffe の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語Wortというものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 Urerlebnis に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen。
一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性 Verschiedenheiten を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念(表象=シニフィアン Vorstellung) を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形 Urform というものが存在するかのような観念(イマージュ Abbild) を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)
ニーチェは別に《人はこまやかさの欠如によって科学的となる》とも言っているが、これが中井久夫のいう「世界の言語化」ーー《世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてる》--の意味合いである。
前回も引用したように、他の享楽(身体の享楽)とは、《言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique》の享楽(ラカン、1974)であり、象徴秩序(ファルス秩序)内の享楽(身体外 hors corps の享楽)が、《言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui 》であるのと対照的に、他の享楽とは《自ら享楽する身体 corps qui jouit》 にかかわる。
この自閉症的享楽は、中井久夫が記しているように、ファルス享楽内の「一般人」に比べ、ひどく敏感な資質をもっている。たとえば「詩人」とは本来、この資質を持っている種族である(参照:ララング定義集)。すなわち《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》に襲われたり、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》(中井久夫)分裂気質種族の近親者である。
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF)
《言葉の物質性 matérialité des mots》とあるが、中井久夫も《「もの」としての言葉》(中井久夫「「詩の基底にあるもの」)という表現を口に出している(参照:ララング定義集)。
だが自閉的他の享楽とは、中毒の享楽でもある面がある。
そして、場合によっては「退行」きわまって、自傷行為等が生じる原マゾヒズム(自己破壊欲動)の方に向ってしまう、《「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 》(ラカン)の方に(参照:享楽という原マゾヒズム)。
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ロマン・ガリー Romain Gary の『La vie devant soi(これからの一生)』にて探究された美しいテーマ…。一人の子供が麻薬常習者の環境のなかで娼婦によって育てられる。そして彼は選択しなければならない。娼婦について彼は言う、「彼女たちは尻で自己防衛している Elles se défendent avec leur cui」。麻薬常習者については、「彼らは幸福に賭けている。ぼくはこっちの生のほうがいいな Eux, ils sont pour le bonheur, moi je préfère la vie」。子供の選択は後者である。ここに私は見出す、ファルス享楽と(ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽とのあいだの対立を。私の意見では、他の享楽は、薬物中毒の原形態において中心的な享楽である。(ポール・バーハウ、2001、BEYOND GENDER. From subject to drive, Paul Verhaeghe)
・マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus
・我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)
言語秩序から退行して、自閉症的な核(原症状)に向っていくということは、フロイト用語でいえば「精神神経症」から「現勢神経症」へ向かうということでもある。
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
「現勢神経症」の主な特徴とは、表象(シニフィアン)を通して欲動興奮を処理することの失敗である。(ポール・バーハウ2008、Paul Verhaeghe,Lecture in Dublin, A combination that has to fail: new patients, old therapists)
これは、ファルス秩序(言語秩序)の覆いーー 《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』)、《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)ーーが剥がされ「欲動蠢動」という原症状が露出するということでもある。
自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない ungebändigten「欲動蠢動Triebregung」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
欲動蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre l962)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889)
分かりやすくより卑近な例を挙げれば、ある時期(薬物中毒期)の安吾享楽のような症状が生れてしまう場合があるのである。《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫「「踏み越え」について」)
彼はいかり狂ってあばれまわり始めると、必ずマッパダカになった。寒中の寒、二月の寒空にけっして寒いとも思わぬらしかった。皮膚も知覚を失ってしまうものらしい。それで恥ずかしいとも思わぬらしいのだが、私は恥ずかしかった。女中さんの手前もあるし、私は褌を持って追いかけて行く。重心のとれないフラフラと揺れる体に褌をつけさせるのは容易ではなかった。身につける一切のものはまぎらわしく汚らわしくうるさいと思うらしかった。折角骨を折ってつけさせてもすぐにまた取りさって一糸纏わぬ全裸で仁王さまのように突っ立ち、何かわめきながら階段の上から家財道具をたたき落とす。階段の半分くらい、家財道具でうずまる。(坂口三千代「クラクラ日記」--オッカサマがオレを助けに来て下さる)
というわけで、《階段の半分くらい、家財道具でうずまる》という、他の享楽(自閉症的享楽)症状をもってしまう種族ーー過度の鋭敏者たちーーもそれなりに厄介であり、やはり言語化による世界の貧困化が必要なのである(フロイト用語では《刺激保護壁Reizschutzes》の設置)。
もちろん人はファルス享楽のドツボの連中のようにニブクはなりたくないとはよくわかり、とすれば、ほどほどの「詩人」がよろしいということになるのだが、そのかねあいが難しい。
ここでいささか飛躍して結論めいたことを言ってしまえば、蚊居肢散人程度のほどほどの鋭敏さ(?)、つまりファルス享楽(神経症)と他の享楽(自閉症・分裂病)との中間地帯に巣食う「倒錯者」になることをオススメしたいところである。すくなくともそれが長生きの秘訣である。
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)
各人それぞれ「新しい倒錯」を発明すること、これが現在ラカン派で言われている「一般化倒錯 perversion généralisée」の真の意味とせねばならない(参照:人はみな穴埋めする)。