このブログを検索

2018年8月16日木曜日

眠っている母の陰部に指をつっこむこと

風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)

この文さえ読まなかったらフロイトなんかそれほど読まなかったのに。みんなはないのかね、眠っている母のオメコに指をつっこんだことが?




ボクの原光景なんだ、鎮守の森が。西春町といういまは北名古屋になってるところなんだけど。当時は田圃ばっかりだった。

なんどもウナサレタね、18才ではじめて女とヤルまではことさら。

ことさらさりげない夢が、じつに赤裸々な欲情を隠しているということは、上にも主張したし、無数の新しい例をあげてこれを証明することもできる。しかし、どこをどう見ても何の変哲もない、意味のない夢の多くが、分析してみると、しばしば意外なほどの、紛れもない性的願望衝動に還元させられる。つぎに引用する夢などは、分析を加えてみなければ、ある性的願望を含んでいるなどとは想像もつかないだろう。《二つの堂々たる宮殿のあいだの、少し引っこんだところに小さな家があって、門はしまっている。妻が私を通りを少々案内して、その家のところまで連れてゆく。妻は扉を押し開いた。そこで私はすばやく堂々と、斜めに勾配のついた内庭へ滑りこむ》

夢の翻訳の経験がある人なら、狭い空間を押し入ることや、しまった扉をあけることなどがもっとも一般的な性的象徴であることに直ちに思いついて、この夢の中に、後部からの交接の試み(女体の二つの堂々たる臀部の丘のあいだに)の一表現を容易に見だすだろう。狭い、斜めに上っている通路は、いうまでもなく膣である。この夢を見た本人の妻に押しつけられた(道案内という)助力は、われわれにつぎのごとく判断するように強いる、つまり現実生活のうえでは妻に対する遠慮があればこそこのような性交形式を採ることが断念されているのだ、と。なおよくきき出すと、こういうことがわかった。夢の前日、若い娘がこの家に雇いこまれた。彼はこの娘が気に入って、上に述べたようなことを仕かけてもこの娘ならばたいしていやがりもしないのではないかちうような印象を与えられた。二つの宮殿のあいだの小さな家は、プラーグの一地区の残存記憶に糸を引くものであって、したがってやはりこのプラーグ出身の娘に関係している。(フロイト『夢解釈』)

狭い、斜めに上っている通路だって? 狭い通路だったらなんでもいいさ。





女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

侯孝賢は、ボクと同じような悩みがあったんじゃないだろうか?





母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)


で、ボクの辛樹芬とヤッタのは、昼下がり、樟がざわめく墓地の台座の上に女の腰のっけてさ。それ以後、鎮守の森は樟に転移しちゃったよ。




我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な unheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される。

こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景の固着 fixieren den Anblick der Genitalbehaarung である。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。

とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間を結晶させているhalten。すなわち女性がファルスをもっている phallisch といまだ見なしうるあの最後の瞬間を捉えている。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

いやあ、母と同じくらい陰毛の濃い女だったんだ


La Belle Epoque. Hou Hsiao-hsien

昨年の10月末にこの映像みてからがまたいけない、穴の底深くに入っちまった

なんで侯孝賢、こんなにボクにぴったんこなんだろ?