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2018年9月7日金曜日

静止画像

人はみな脳内に静止画像をもっているはずだ。中井久夫のように3歳前後以前の静止画像を10枚も持っているか否かは別にして(参照:異物としての隠蔽記憶)。

ボクは4枚しかない。でも3歳以後の記憶もフラッシュバック形式で現れるならそれ以前の幼児型記憶と類似だとすれば、3歳以後の静止画像でもいいさ。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

そうであるなら軽く10枚以上はあるね、ボクの静止画像は。8割は女だな、他の2割だってあやしい。つまり「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」のフラッシュバックは。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

ボクが詩や散文を読んでて「あ、いいな」と唐突に感じ、ゆらめく閃光が遠くからやってくるときは、だいたいは静止画像にかかわってるよ。

その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

音楽でもときにそういうことがある。ふと流れてきたある旋律に茫然としてしまう瞬間がたまにあるのだけど、そのうちの半分くらいは、かつてその旋律をきいたときの光景が浮かんでくるときだな。これを外傷的フラッシュバックと云うのかどうかは判然としないけど。




ーーこのBWV614に惚れ込んで聴いていた高校一年のあの夏は、さる少女にやたらに惚れていたときでね。じつにヨクナイ、つよい悲哀に包まれてしまって。

映画だってそうだ。


ゴダール、Nouvelle vague (1990年)


あ、ああ、あああ!

ーーー最初はこの映像に出会っただけでどうしてオチンチンがカタクなるのかわからなかったよ・・・





……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。

(……)彼女の脚、かわいらしいぴちぴちした脚は、あまりかたくはとじられず、私の手が求めていたものをさぐりあてると、よろこびと苦痛の相半ばした、夢みるような、おびえたような表情が、あどけない顔をかすめた。彼女は私よりもやや高い位置に腰をおろし、一方的な恍惚状態におそわれて私に接吻したくなると、彼女の顔は、まるで悲しみに耐えられなくなったように、弱々しく、けだるそうに私にしなだれかかり、あらわな膝は、私の手首をとらえて、しめつけては、またゆるめた。そして、何か神秘的な薬の苦さにゆがんで小刻みにふるえる唇が、かすれた音をたてて息を吸いこみながら、私の顔に近づいた。彼女は最初、愛の苦痛をやわらげようとするかのように、かわいた唇を、あらあらしく私の唇にこすりつけたが、やがて顔をはなし、神経質に髪の毛をうしろへはらってから、またそっと顔をよせて、かるくひらいた唇を私に吸わせた。一方私は、心も首も内臓もすべてを惜しみなく彼女にあたえたい一心から、彼女のぎごちない手に私の情熱の笏〔しゃく〕を握らせた。(ナボコフ『ロリータ』)