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2018年11月5日月曜日

窈冥之門あるいは玄牝之門

窈兮冥兮、其中有精 [窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り](老子『道徳経』第二十一章)

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谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子『道徳経』第六章)
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子『道徳経』第六章「玄牝之門」福永光司訳)


古代から人は或いは思想家たちは、玄牝之門のまわりを循環してきたのである。『古事記』の「妣國」(ははのくに)、『日本書紀』の根国・「底根國」(柳田国男の根所[ニードゥクル])、古代ギリシャの「ゾーエ― Zoë」、プラトンの「コーラ χώρα」、ハイデガー の「杣径Holzwege」・・・


ハイデガー は『杣径』(1950年)を上梓した前年の1949年、老子を訳している。

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

ーーこの杣径をどう読むのかは、もちろん読み手の勝手である・・・





絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。(老子『道徳経』第二十章)
学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。

だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人は学識を尊敬してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。

だいたい学問をやっても茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。

衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。

みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは明快に腕を振るうが、私の仕事は煩悶(はんもん)が多い。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。

衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながら田舎住まいを続けている。しかし、そうはいっても、私は違う。私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。(老子『道徳経』第二十章、保立道久『現代語訳 老子』)

《我獨異於人、而貴食母[私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたい]》、--肝心なのはこれしかないのである。


孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。自古及今、其名不去、以閲衆父。吾何以知衆父之状哉、以此。(老子『道徳経』第二十一章)
女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。この信が遥かな過去から現在にいたるまで一貫して存在し、つねに衆父(族長)を統括してきたのである。私が族長とはそういうものだと知ったのは、以上のようなことを私も体験したからである。(老子「道徳経」第二十一章、保立道久『現代語訳 老子』)

ーー《惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物[恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物がある)]》

ああ、エクスターティッシュ・オッフェン(ekstatisch offen)!

ハイデガーでは、フライ・ウント・オッフェン(frei und offen)つまり、フリー・エンド・オープンと言っています。さらに エクスターティッシュ・オッフェン(ekstatisch offen)、ecstasically open と言っています。エクスターゼによって開いてある、とおおよそそんな意味になりますか。エク・スターシスek-stasisとは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」2001 年)

保立道久氏は「孔德」という語を次のように注釈している(参照)。

「孔德」という言葉は、周代の鼎の銘文からすでにみえ、普通、「大いなる徳」「深淵なる徳」という意味であるが、「穴の中の空間のように無為の徳」(〖木村注釈〗)というように「孔」の意は残すべきだろう。「孔徳の容(よう)」の「容」は従来の注釈では姿・有様などとされるが、むしろその本来の意味、つまりは「容れること広大」の意味にとりたい。

ああ、「穴の中の空間のように無為の徳」!

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)

S(Ⱥ) とはȺ(大他者のなかの穴 trou dans l'Autre)あるいはフロイトのモノdas Ding を指し示す「境界表象 Grenzvorstellung」である。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réel と呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

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もっとも誤解をさけるため、こうも引用しておかなければならない。

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
享楽自体、穴を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme. (ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

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《恍兮惚兮、其中有物[恍惚の中に物がある)]》(老子「道徳経」第二十一章)

だが究極の恍惚は去勢である(去勢されている)。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)