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2018年11月6日火曜日

結論する時

以下、資料編。

◆ラカン、セミネール25「結論する時[ le moment de conclure]」より。


【言語は存在しない】
・象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage

・現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

※参照:ララング定義集


【科学は幻想である】
科学は不毛である。それは誰の生においても何の重要性もない。科学の効果というものはあってさえ。たとえばテレヴィジョン。しかし科学の効果は、幻想以外の何ものでもない。私はこう書くの好む、すなわち《我信じる hycroit》と。La science est une futilité qui n'a de poids dans la vie d'aucun, bien qu'elle ait des effets, la télévision par exemple. Mais ses effets ne tiennent à rien qu'au fantasme qui, écrirai-je comme ça, qui « hycroit ».

科学は、際立って死の欲動につながっている。生は継続するのである、幻想につながった再生産という事態のおかげで。La science est liée à ce qu'on appelle spécialement pulsion de mort. C'est un fait que la vie continue grâce au fait de la reproduction liée au fantasme.(ラカン、S 25, 20 Décembre 1977)


【現実はない・科学は詩である】 
現実はない。現実は幻想によって構成されている。その上、幻想とは、詩に素材を提供するものである。il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme, et le fantasme est aussi bien ce qui donne matière à la poésie.(ラカン、S25、20 Décembre 1977)
この意味は、科学の全発展は、性関係と呼ばれるものに帰因して現れて乱入するものだということである。C'est-à-dire que tout notre développement de science est quelque chose qui, on ne sait pas par quelle voie, émerge, fait irruption, du fait de ce qu'on appelle rapport sexuel.

なぜ科学として機能する何かがあるのか。科学は詩なのである。Pourquoi est-ce qu'il y a quelque chose qui fonctionne comme science ? C'est de la poésie. (ラカン、S25、20 Décembre 1977)

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以下、補足。

【科学】
科学があるのは「女というものは存在しない La femme n'existe pas」からである。知はそれ自体「他の性 Autre sexs」についての知の場にやってくる。(ミレール「もう一人のラカン」)
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
女というもの La femme は空集合 un ensemble videである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975)


【メタランゲージはない】
メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

…見せかけはシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


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◆ニーチェ篇

【論理学は存在しない・数学は存在しない】
論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一 であるというような前提にもとづいている。

Auch die Logik beruht auf Voraussetzungen, denen nichts in der wirklichen Welt entspricht, z.B. auf der Voraussetzung der Gleichheit von Dingen, der Identität des selben Dinges in verschiedenen Punkten der Zeit:


…数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。

Ebenso steht es mit der Mathematik, welche gewiss nicht entstanden wäre, wenn man von Anfang an gewusst hätte, dass es in der Natur keine exakt gerade Linie, keinen wirklichen Kreis, kein absolutes Größenmaß gebe.(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』1-11、1878年)


【科学は存在しない】
・科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

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物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que
c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire(ラカン、S16、20 Novembre 1968)
分節化ーー見せかけ(仮象 semblant) の代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これがリアル réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何がリアル réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971)



【真理は存在しない】
真理とは錯覚である die Wahrheiten sind Illusionen。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。 真理とは、擦り切れて感覚的力が干上がった隠喩Metaphernである。使い古されて肖像が消え、もはや貨幣としてではなく、金属として見なされるようになってしまった貨幣である。

die Wahrheiten sind Illusionen, von denen man vergessen hat, daß sie welche sind, Metaphern, die abgenutzt und sinnlich kraftlos geworden sind, Münzen, die ihr Bild verloren haben und nun als Metall, nicht mehr als Münzen, in Betracht kommen(ニーチェ『道徳外の意味における真理と虚偽について』1873年)
わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。……

総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」(ニーチェ『力への意志』1886/87草稿)

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真理は見せかけ(仮象)の対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
現実界は、見せかけのなかに穴を作る。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)


【言語はレトリックである】
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)
言語の使用者は、人間に対する事物の関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩Metaphernを援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年:死後出版)

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見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
見せかけでない言説はない。Il n'est discours que de semblant. (ラカン、S18, 09 Juin 1971)
言説自体は、いつも見せかけの言説である。le discours, comme tel, est toujours discours du semblant (ラカン、S19、21 Juin 1972)
言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリステヴァ1980、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection)


【女】
真理は女である die wahrheit ein weib 、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛 Liebe zu einem Weibe にほかならない・・・(『ニーチェ対ワーグナー』エピローグ、1888年)
真理への意志 Wille zur Wahrheit は、いまだ我々を誘惑している。…我々は真理を欲するという。だがむしろ、なぜ非真理 Unwahrheit を欲しないのか? なぜ不確実 Ungewissheit を欲しないのか? なぜ無知 Unwissenheit さえ欲しないのか?(ニーチェ『善悪の彼岸』第1番、1886年)

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真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)