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2018年11月7日水曜日

享楽は去勢である

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

ーーこれが最後のラカンの享楽である。

まず象徴的去勢、想像的去勢がある。

象徴的去勢とは、言語の使用による去勢である。人は話す瞬間から、自分自身の身体との直かの接触を喪う。

想像的去勢とは、主に原初の母子関係に対する父の禁止(去勢の脅かし)である。この想像的去勢はもはやまったく重要ではない。

これ以外に、現実界的去勢の審級に属するものとして、次のものがある。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除forclusion du signifiant 。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert 、2018)

ーー今引用した文は、2018年主流ラカン派会議における主要議題である。

ラカン自身の表現を二つだけ抽出する。

「女というもの La Femme」 は、その本質において 、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というもの La Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
私は…(フロイトの)「 Vorstellungsrepräsentanz」を「表象代理 représentant de la représentation」と翻訳する。…この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)

これが、《女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.》(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)の最も核心にある意味合いである。

そして、すべての人間における引力の核としての原抑圧とは、穴のことである。

リビドーは、その名が示しているように、穴trouに関与せざるをいられない。身体と現実界le corps et le Réelが現れる他の様相と同じように。(⋯⋯)

(そして)私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


これが人がみなもっているトラウマーー《穴ウマ troumatisme》(S21、19 Février 1974)ーーである。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

後期ラカン用語において最も重要な一つは欠如と穴の相違である。

欠如の欠如 manque du manque が現実界を生む。(Lacan、AE573、1976)

ーー欠如の欠如が穴を生むのである。

欠如 manqueは、場のなかに刻まれた不在 absence であり、欠如は場の秩序に従う。他方、穴Trouは、秩序の消滅・場の秩序の消滅である。


さて話を戻せば、象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢を示したが、去勢とはこの三種類だけではない。これ以外にすくなくとも出産外傷による原去勢がある。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

この胎盤の喪失は、フロイトにおける母の去勢とほぼ等置できる。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

ーーフロイトのこの同じ論に《喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinlebe》との表現もある。

他方、ラカンには《廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 》という表現がある。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

何よりもまず、原初に享楽は天引きされているのである。

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

「享楽の控除 une soustraction de jouissance」とは、享楽の引き算、享楽の天引きである。


ラカンの考えでは、人はみな享楽の穴のまわりを循環運動する生を送っているのである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

ーー比較的早い段階のミレールはこう言っている、《死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。》(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)

人は己れの臍の穴についてじっくりと思いを馳せなければならない。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

もちろんフロイトやラカンから離れてこう引用してもよい。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(グザビエ・ビシャ Xavier Bichat ーー、フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳より孫引き)
昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ『ドウイノの悲歌』)




安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


わたくしには四十歳前後の「とてもスグレタ」思想家やラカン派が寝言を言っているようにしか思えないのは、この中井久夫=安永浩の図が示している。他方、詩人たちは膨らみの少ない種族である(中心の細長い瓜)。