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2018年11月8日木曜日

ボロメオ結びの中心にある享楽の喪失

最晩年のラカンはこう告白した。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

これは想像界・象徴界・現実界を支える何ものかを模索した結果としての告白であり、ボロメオ結びの構造自体が否定されたわけではないとわたくしは考える。以下、その前提で記す。

⋯⋯⋯⋯

まずセミネール23「サントーム」におけるボロメオ結びの中心にある「a」についての発言である。

ボロメオの中心にある)対象aは、欲望の原因 le petit( a), la cause du désir である。(ラカン、S23、13 Janvier 1976)




コレット・ソレールの「欲望の原因」についての明快な注釈を掲げよう。

欲望の原因 cause du désir は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)


次に1974年「三人目の女」講演である。





奇妙なのは、享楽はどれも、この図における対象というものを措定しており、したがって、剰余享楽 le plus-de-jouir も、その場所がここにあるとわたしは考えてきたのだから、すべての享楽にとってその条件となっている au regard d'aucune jouissance, sa condition、ということである。

簡単な図を作ってみた。身体の享楽 jouissance du corps 、これは生の享楽 jouissance de la vie でもあるのだが、この享楽がどうなっているのか示すためだとすると、驚くべきことは、この対象、すなわち"a" [cet objet, le (a)]は、ファルス享楽からこの身体の享楽を引き離しているということである。このことに関して、みなさんは、ボロメオの結び目がどのようにできているのかが分かっていなければならない。 (ラカン、三人目の女 La Troisième、1er Novembre 1974)

上にあるように大他者の享楽、あるいは他の享楽(ファルス享楽の彼岸にある別の享楽)とされる「jouissance de l'Autre」は、事実上、身体の享楽(女性の享楽)のことである。

ファルス享楽 jouissance phallique [JΦ] とは身体外 hors corps [(a)] のものである。大他者の享楽 jouissance de l'Autre[JA] とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

実際、ラカンは既に1967年の段階で、《大他者は身体である L'Autre c'est le corps! 》(S14, 10 Mai 1967)と言っている。

そして最初に掲げたセミネール23のボロメオ図に現れるように、セミネール22までの JA は、セミネール23に至って となる。つまりは「身体の穴の享楽」、「大他者の穴の享楽」である。

人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (ラカン、Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)


ここでもう一つ、セミネール23の後半(13 Avril 1976)に現れる「真の穴」との表示があるボロメオ図を提示する。





ここまで示してきた三つのボロメオ図を一つの図で示せば、こうなる。





joui-sensとは、《幻想のなかに刻印される意味の享楽である。petit a c'est encore un sens-joui, c'est encore un sens-joui inscrit dans le fantasme. 》(ミレール、Jacques-Alain Miller du 6 juin 2001 )

これは見せかけとしての対象aであり、フェティッシュφ- φ の覆い)である。

セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

ーー《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。(J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997年)

⋯⋯⋯⋯

さてここまでは前段である。

ここからは、ラカンが《すべてのほかの享楽の条件》とする「剰余享楽」に焦点を当てる。

剰余享楽には両義的な意味がある。

仏語の「剰余享楽 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪われたもの perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪われたものを埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney,  2011)
剰余享楽 le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「剰余享楽 plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

剰余享楽については、ラカンには次のような定義もある。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

ーーフロイトの快の獲得については、「享楽欠如の享楽」を見よ。

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

マルクスの剰余価値とはフェティッシュのことである。そして、資本のフェティッシュGeldfetisch、商品のフェティッシュWarenfetisch、株式の自動的フェティッシュautomatische Fetisch は、それぞれ JΦ、joui-sens、JȺ に相当すると考えるが、ここでその具体的な内容は割愛し、資本論から二文だけ引用しておこう。

貨幣のフェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品のフェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)

なにはともあれ、ラカンはこう強調している。

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)

これらの定義を考慮すれば、ボロメオ結びの中心にある四つの重なり部分はすべて剰余享楽 le plus-de-jouirである。




ただし真中のaは「享楽の喪失」という意味での剰余享楽に近似し、それ以外はその享楽の喪失の穴埋めとしての剰余享楽である。

したがってラカンが「真の穴 Vrai Trou」として示している JȺ は、厳密に言えば、最初の穴埋めの機能をもっているという解釈をわたくしはしている(フロイト用語なら、原トラウマの「境界表象 Grenzvorstellung 」)。

事実、JȺに相当する女性の享楽(身体の享楽)について、ラカンはこう言っている。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

通常、剰余享楽概念における《もはや全く享楽はない [« plus du tout » de jouissance]」》の意味は蔑ろにされている。わたくしも最近になってようやく気づいた。

ここでコレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールの簡潔な注釈を掲げる。

現実界のなかの控除(引き算)の効果が、対象aである。effet de soustraction dans le réel, qui est l'objet a. (コレット・ソレール COLETTE SOLER, LES AFFECTS LACANIENS、2012)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の仕方を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

この二人の見解に則れば、ボロメオ結びの中心のすべてのほかの享楽の条件としての(a)は、(- φ) (- J)と書き換えうる。あるいは穴Ⱥとすることもできる。


対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

すなわち、aが穴Ⱥであるなら、その最初の穴埋めがである。


そして上に記した「意味の享楽 sens-joui= φ (フェティッシュ)を加味してボロメオ図をみれば、人間の三種類の心的構造ーー精神病・倒錯・神経症ーーを(おおむねの形だが)示すことさえできる。





わたくしはマテーム上では、ラカンの使用していない φ / と記すのが一番すっきりするとは思っている。



でも既存のマテームをめぐってもラカン派内でさえ明瞭に把握している人はすくないので(そしてわたくしも確信をもって、これだ!と言い切れるわけではない)、やはりやめておいたほうがいいだろう。

話を戻せば、晩年のラカンにとって神経症とは倒錯の一種である。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

コレット・ソレールで補えば次の通り。

結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)


最後に「享楽は去勢である」で引用した最晩年のラカンを再掲しよう。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

ラカンの考え方においては、人は原初にある去勢 (- φ) 、あるいは享楽の天引き (- J) に対する防衛として、三種類の症状のどれかを作り上げて生きているのである。