このブログを検索

2018年11月1日木曜日

Ebène フォーレop121

◆The Ebène Quartet plays Fauré quartet e-minor




ーーふた月前の演奏(Wissembourg Festival August 27th 2018)


エベーヌカルテットは、ビオラの Mathieu Herzog が2015年にグループから離れ(彼は今指揮者をやっている)、後釜がなかなか決まらなかったのだが、Marie Chilemmeで落ち着くのかな(チェロ男だけに惚れすぎなかったらいいんだけどな・・・)




とっても「女」だね、彼女は。一楽章冒頭の見事さはさておき、三楽章なんか見てると、イイなあ、彼女の仕草。どうイイのか言わないでおくけど。

真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)
真理は女である。真理は常に非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)

カルテットというのは女一人混じっていたほうがいいんじゃないか。男二人女二人はダメだね。男一人女三人なんてありえない(カラダがモタナイ!)。女四人だったらときにいける・・・

エベーヌカルテットの三楽章は、2012年だったかのがネット上に落ちていて、その演奏が好きだったんだけど、上の演奏はそれよりずっといい。彼らは三楽章がとっても上手い。二楽章はちょっとボクの趣味とは違うけど、何度か聴いていたらナレルかも(今のボクの耳には低音部の響きが弱すぎる箇所があり、ヴァイオリンのPierre Colombetーーとっても好きな演奏家なんだけどーーが前面に出過ぎて聞こえてくる)。

二楽章のアンダンテがホントに美しく演奏できるカルテットは稀有だな、ボクの最愛の楽章なんだけど。


◆Faure, String Quartet, Movement 2  (たぶんグァルネリ弦楽四重奏団 Guarneri Quartet)





だれもが知らねばならぬことは、音楽の女王は弦楽四重奏だということである(もちろん真理は女だという前提でわたくしは今、記している)。そしてこのフォーレ遺作は、その至高の作品のひとつーー、人がいままで作られた弦楽四重奏曲のなかから十曲選ぶなら必ずそのなかに入る作品ーーだということである(敢えて十曲としてのは、わたくしのように、三曲のうちの一つに入れるほどまでには人に強制したくないという意味である)。

弦楽四重奏は、音楽のもっとも精神的な形をとったものである。あるいは精神が音楽の形をとった、精神と叡智の窮極の姿が弦楽四重奏である。それはまた、最もよく均衡のとれた形でもって、あいまいなところが少しもないまでに、ぎりぎりのところまで彫琢され、構成され、しかも、それをつくりあげるひとつひとつの要素が、みんな、よく「歌う」ことを許されているーーいや歌っていないとだめな形態である。明智の限りまで考えぬかれ、しかもすべてがよく歌い、しかも部分と全体の間で完璧な均衡が実現されているもの。それが弦楽四重奏である。(吉田秀和『私の好きな曲』)

フォーレは死の直前になって(難聴におそわれつつ)ようやく念願の、唯一の弦楽四重奏を書き上げた。ベートーヴェンから徹底的に学んで。とくにop131から。

◆Beethoven - String quartet n°14 op.131 - Budapest 1951




⋯⋯⋯⋯

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.(ラカン、E825、1960)
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )
・《「触るなかれ」としての美 beau : ne touchez-pas》(S7、18 Mai 1960) 、これがカントの「美は無関心」のラカンによる「概念的翻訳」である。

・美はラカンの外密 Extimité の効果の名である。これが正確に、カントの「美は無関心」が目指したものである。(ジュパンチッチ、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan by Alenka Zupančič, pdf
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

◆Anton Webern, Streichquartett op. 9



ーーー「⋯⋯亡霊たちのざわめき Geräusch der Gespenster の中からやっと理性の声が聞こえてきました。……それにしても狂気からほんの一歩のところにいたのに気づかなかったとは」(ウィトゲンシュタイン、書簡集)

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『詩への小路』ドゥイノ・エレギー訳文1、古井由吉)
美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)